第3話:境界の向こう側
からかさ様を手に、俺はアパートへの道を戻っていた。
雨は相変わらず降り続いているが、不思議と気分は悪くない。むしろ、心のどこかが満たされたような、温かい気持ちだった。
左手に握ったからかさ様から、穏やかな気配が伝わってくる。それはまるで、安心しきって眠っている小動物の寝息のようだった。
――本当に、魂が宿ってるんだな……。
改めて実感すると、少しだけ笑みがこぼれる。
これから、こいつの住処をどうしようか。俺の部屋は狭いし、傘立てなんて洒落たものはない。でも、玄関の隅にでも、専用の場所を作ってやろう。
そんなことを考えていた、その時だった。
キィン、と。
不快な耳鳴りのような音が、頭に響いた。
思わず顔をしかめ、足を止める。
次の瞬間、世界からふっと色が抜け落ちた。
さっきまで濡れて鮮やかだったアスファルトも、街灯のオレンジ色の光も、コンビニのけばけばしい看板も、全てが色褪せたセピア色の写真のように変わってしまった。
「な、なんだ……?」
それだけじゃない。
あれほど激しく耳を打っていた雨音が、まるで分厚い壁の向こう側で鳴っているかのように、くぐもって遠くなった。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
空気が重い。濃密な霧の中にでもいるかのように、呼吸がしづらい。
――まさか……これって……。
脳裏に、数日前にオカルト好きの友人が興奮気味に話していた都市伝説が蘇る。
『――時々、世界にバグが起きるんだって。日常と非日常が交わる空間、通称〝境界領域〟。迷い込んだら、二度と帰ってこれないらしいぜ』
当時は鼻で笑って聞き流したが、目の前の光景は、まさしくその話そのものだった。
明らかに異常な事態だった。
俺はからかさ様を握りしめ、警戒しながら周囲を見渡す。
見慣れた帰り道のはずなのに、そこは全く知らない場所に思えた。まるで、世界の裏側にでも迷い込んでしまったかのような、強烈な違和感と疎外感。
そして、俺は見てしまった。
道の先、十字路の真ん中に立っている〝何か〟を。
それは人の形をしていたが、人ではない。
着物のようなものを纏い、その全身に、血のように禍々しい赤い糸が、幾重にも、幾重にも絡みついている。顔があるべき場所は、のっぺりとした影になっていて、表情はうかがえない。ただ、その影の中心から、底なしの怨嗟と執着が、瘴気のように溢れ出していた。
「ひっ……」
喉から、かすれた悲鳴が漏れる。
本能が、警鐘を鳴らしていた。
あれはヤバい。関わってはいけない。今すぐここから逃げろ、と。
俺は後ずさる。
しかしその異形の怪物は、俺には目もくれていなかった。その視線は、十字路の向こう側――俺とは反対の方向にいる、誰かに向けられている。
そちらに目をやると、一人の少女が立っていた。
俺と同じくらいの歳だろうか。緋色の衣を纏い、その手には、まるで芸術品のように美しい長剣が握られている。
雨に濡れた黒髪が、彼女の険しい表情に張り付いていた。
「これ以上、好きにはさせません……!」
少女が、凛とした声で叫ぶ。
その声には、恐怖の色は微塵もなかった。あるのは、強い決意と、怒り。
赤い糸の怪物は答えない。ただその体から、新たな赤い糸が蛇のように何本も、何本も這い出てきた。それはまるで、獲物を絡めとろうとする、巨大な蜘蛛のようだ。
――なんなんだ、一体……。映画の撮影か? いや、だとしたら、この世界の異変はなんだ……?
頭が混乱する。
ここは、俺が知っている日常の延長ではない。まるで悪夢の中にいるような感覚の中、俺はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
目の前で、少女と怪物の戦いが始まろうとしている。それは俺の日常が、非日常に侵食される、始まりのゴングだった。