幕間 月下の影、神の裔
月が、忌々しいほどに、冴え冴えと夜空にかかっている。
古びた社の縁側に腰を下ろし、私は己の掌を見つめていた。
魂の根幹である「役割」を、一時的とはいえ、強制的に引き剥がされた後遺症。未だに、指先が微かに震えている。
私の名は、八咫。
偉大なる国津神の主、大国主命様の復活を悲願とし、その先駆けを務める者。
その私が、天津神の犬でもない、たった一人の人間の子供に不覚を取った。
「八咫様。お体の具合は、いかがですか」
傍らに控えていた、腹心の巫女、真名鶴が、気遣わしげに声をかけてくる。
彼女が差し出した霊水で喉を潤し、私はゆっくりと首を横に振った。
「……問題ない。それよりも、だ。あの小僧……天野宗佑。奴の報告を」
「はっ。神祇庁管轄の医療施設に搬送され、意識不明とのこと。ですが、命に別状はない模様です」
「……そうか」
脳裏に、あの光景が焼き付いて離れない。
金色の瞳。
神の魂に直接干渉する、あの理不尽なまでの力。
間違いない。あれこそが、千年の昔、我ら国津の神々を苦しめ、その歴史を封印した「名付けの祖」の力そのものだ。
「黒鉄ハヤトは、どうなった」
「同じく、神祇庁に身柄を拘束されたものと。駒としては、もう使い物にはなりますまい」
真名鶴が、悔しそうに言う。
だが私は、扇子で口元を隠し、ふふ、と笑みを漏らした。
「いや、真名鶴。むしろ、好都合だ。壊れた駒の代わりに、最高の『鍵』が、向こうから姿を現してくれたのだから」
「……と、申しますと?」
「あの力は、神の魂を縛ることも、そして、解き放つこともできる、諸刃の剣。もし、天野宗佑をこちら側に取り込むことができれば……我らが主、大国主命様の完全なる復活も夢ではない」
そうだ。
我々の真の目的は、大国主命様の負の側面だけを荒神として復活させることではない。
その、あまりにも強大すぎるがゆえに、自ら封印されている本来の御力。その封印を解き、この地に、真の神々の王を再び降臨させること。
そのためには「名付けの祖」の力が必要不可欠なのだ。
「しかし、八咫様。あの少年が、我らに従うとは、到底思えませぬが」
「うむ。だから、やり方を変える」
私は、月の光を浴びながら、楽しそうに言った。
「力でねじ伏せようとしても、彼の心は折れん。ならば、彼の、最も弱い部分を突くまでだ」
「弱い、部分……?」
「彼の、青臭いまでの『優しさ』と『責任感』。そして、彼が守ろうとしている、矮小な神々との『絆』」
あの少年は、必ず、また黒鉄ハヤトに関わろうとするだろう。
そして、自分の力のせいで誰かを傷つけ、運命を狂わせてしまったことに、深く悩むはず。
その心の隙間に、我らが優しく寄り添ってやればいい。
天津神でも、神祇庁でもない、我ら国津神こそが、彼の、そして、忘れられた神々の、真の理解者なのだと、教えてやればいいのだ。
「真名鶴。傷は癒えた。次の舞台の準備を始めるぞ」
「はっ。御意のままに」
私は、夜空に浮かぶ不吉なほどに美しい月を見上げた。
天野宗佑。
お前を、我らの新しい「王」として迎え入れてやろう。
お前が、それを望むと、望まざるとに関わらずにな。
私の唇からこぼれた笑い声が、闇夜に静かに溶けていった。




