第29話:月下の介入者
「これで、終わりよ!」
詩織が叫ぶ。
彼女の手の中で再構築された炎の剣は、もはや憎悪を断ち切るためのものではない。
傷ついた魂を癒し、浄化するための、慈愛に満ちた桜色の輝きを放っていた。
その浄化の炎が、魔刀『国崩』の呪縛から解放され、呆然と立ち尽くす黒鉄を、優しく包み込もうとした、その瞬間。
――ヒュンッ!
夜の闇を切り裂き、一本の矢が、凄まじい速度で飛来した。
それは、詩織の炎の剣を狙ったものではない。
黒鉄を狙った、明確な殺意の一撃だった。
「なっ……!」
詩織は、咄嗟に攻撃を中断し、声を上げた。
矢は、黒鉄ハヤトの脇腹を掠めて地面に突き刺さり、禍々しい紫色の煙を上げた。
「ぐあっ!」
黒鉄が脇腹を押さえて地面に膝をつく。
「……誰だ!」
俺は、矢が飛んできた方向――薬王院の、本堂の屋根の上を、睨みつけた。月明かりを背に、二つの人影が立っていた。
一人は、古風な狩衣を纏い、能面のような無表情な顔をした、長身の男。
もう一人は、黒い巫女装束を身にまとい、扇子で口元を隠して、楽しそうにこちらを見下ろしている、妖艶な女。
そのどちらからも、今まで感じたことのない、底の知れない、古く、そして強大な神気が放たれている。
「……フフフ。残念でしたわね。その駒はもう用済みですの」
巫女装束の女が、鈴を転がすような、しかし、どこか残酷な響きを持つ声で言った。
「フン、まさか避けるとはな。役目を果たせなかった道具は、きちんと処分せんとな」
――こいつらが、「あの御方」か!? それとも……。
黒鉄を操り、この事態を引き起こした全ての元凶。
彼らは、黒鉄が俺たちに敗れることを見越して、このタイミングで現れたのだ。
目的は口封じ。そして、証拠の隠滅。
「……八咫様。巫女様」
黒鉄が、絶望に染まった声で彼らの名を呼んだ。
「なぜ……」
「期待外れだ、黒鉄ハヤト」
八咫と呼ばれた男が、感情のない声で告げた。
「あなたの憎しみは、所詮、個人の感傷に過ぎなかった。我らが主の、大いなる器となるには、あまりにも矮小すぎたのです」
彼らは、黒鉄をただの使い捨ての道具としか見ていなかったのだ。その、あまりにも非情な言葉に、俺は激しい怒りを覚えた。
「ふざけるな! あんたらが、黒鉄を、こんな風にしたんじゃないか!」
「お黙りなさい、名付けの裔」
巫女が、扇子をぴしゃりと閉じた。
「我らは、彼に『救済』の機会を与えただけ。それを掴めなかったのは、彼自身の弱さ故。そして、あなたという余計な邪魔が入ったせいですわ」
彼女たちの瞳は、もはや黒鉄には向いていない。その、捕食者のような視線は、俺ただ一人に注がれていた。
俺の持つ「名付けの祖」の力が、彼らの計画にとって、最大の障害であると完全に見抜いているのだ。
「まあ、いいだろう」
八咫が静かに弓を構える。その手には、先ほどと同じ禍々しい気を放つ、二本目の矢がつがえられていた。
「黒鉄ハヤトの代わりに、お前らが我らが主の元へ来るというのなら、それもまた一興」
彼の狙いは、俺と、そして俺の隣で警戒しながらも動けないでいる詩織。
状況は最悪だ。
俺も詩織も、黒鉄との戦いですでに満身創痍。
そして相手は、黒鉄とは比較にならないほどの格上の存在。
だが、その時。
俺たちの間に、ふらつきながらも一つの影が割り込んだ。
黒鉄ハヤトだった。
彼は、俺たちを守るように、その傷ついた体で八咫と巫女の前に立ちはだかった。
「……もう、あんたたちの好きにはさせない」
黒鉄の声は弱々しかったが、その瞳には初めて、確かな「自分自身の意志」の光が宿っていた。
俺の言葉が、そして八咫たちの裏切りが、彼の魂を縛っていた最後の枷を打ち砕いたのだ。
「……ほう。土壇場で、自我を取り戻しましたか。見苦しい」
巫女が、心底つまらなそうに言う。
「ですが、あなたたちに勝ち目がおありで?」
彼女の言う通りだ。
だが、俺はもう絶望していなかった。
敵であるはずだった男が、今、俺たちの隣に立ってくれている。
それだけで、負ける気がしなかった。
俺は、にやりと笑って見せた。
「俺たちには、数えきれないほどの、仲間がいるんだぜ」
俺の言葉に応えるように、神座が、そして、この高尾山の、全ての神々が、微かに共鳴を始めた。
最後の戦いが、今、始まろうとしていた。




