幕間 月下の影、神の裔
月が、冴え冴えと夜空にかかっている。
私は高尾山を見下ろす、近くの山の頂に静かに立っていた。
眼下では天津神の犬どもが、自分たちの作った矮小な秩序を守るために右往左往している。
なんと滑稽なことか。
「……フフフ」
私の傍らに立つ巫女装束の女が、扇子で口元を隠しながら、楽しそうに笑った。
「始まりましたわね、八咫様」
「あぁ」
私は、短く応える。
私の名は、八咫。
偉大なる国津神の主、大国主命様に仕える者。
そして、かの神話の時代、「国譲り」の裏で天津神によって滅ぼされた、一族の末裔。
高尾山から立ち上る、禍々しい気配。
あれは私が、黒鉄ハヤトという心の折れた少年に与えた力。
我が同胞、国津の神々の、千年に渡る怨嗟を練り上げて作った、魔刀『鬼丸国綱』の、真の姿。
あの少年は、道具としてはなかなかに優秀だ。守るべきものを失った渇望は、力を引き出すための極上の燃料となる。
「あの少年、なかなか見所がありますわね。あの力、いずれは我らが主の良き器となりましょう」
「……どうかな」
私は、巫女の言葉を静かに否定した。
私の目は、黒鉄ハヤトには向いていなかった。
麓から山を登ってくる、二つの小さな光。
一人は、神祇庁のエリート、神楽坂家の娘。天津神の血を引く忌まわしい存在だ。
だが、問題はもう一人の方。
天野宗佑。
あの少年から感じる気配は、他の神契者とは明らかに異質だ。
それは、力ではない。
それは、呪いでもない。
忘れられた者たちの声を聞き、その魂に寄り添い、名を呼ぶ力。
その力は、我々、国津神の怨念とはあまりにも相性が悪い。
我々の悲願を、根底から覆しかねない危険な力だ。
「……見つけましたわ」
巫女が、扇子を二つの光点の方角へと向けた。
「ここで始末いたしますか? 神楽坂の娘ごと」
「待て」
私は、彼女を制した。
「まだだ。まだその時ではない。彼らが、あの黒鉄と、高尾山の荒神たちを相手にどう戦うか。まずは見定めさせてもらう」
もし、彼らがここで潰える程度の存在ならばそれまで。
だが、万が一。
万が一あの少年が、この絶望的な状況を覆すようなことがあれば。
「その時は、私が直々に、その魂ごと摘み取ってやろう」
天津神の末裔でも、神祇庁の人間でもない。
我らが悲願にとって、最大の障害となりうるのは、あの少年だ。
千年前、我らの一族を滅ぼし、その歴史を封印した、忌まわしき「名付けの祖」の力を継ぐ、最後の裔。
月明かりが、私の顔を冷たく照らし出していた。
夜はまだ長い。
本当の戦いは、これから始まるのだ。




