第2話:君の名前は
俺はビニール傘の山を前に屈みこんだ。着替えた服を早速に濡らすが、構わない。
どれもこれも似たような姿をしている。百円ショップやコンビニで売られている、ありふれた傘。持ち主にとっては、その程度の価値しかない消耗品なのだろう。
だけど、じいちゃんは言っていた。
『どんな物にもな、物語があるんだ』
俺はゆっくりと、傘の山に手を伸ばした。
指先が一本の傘に触れる。その瞬間――。
(――あ、雨だ)
脳内に、誰かの記憶が流れ込んできた。
それは、この傘自身の記憶。
新品として店に並べられ、急な雨に困っていた若い女性に買われた日の、小さな喜び。彼女を雨から守り、役に立てたことのささやかな誇り。
そして雨が上がった後、電車の中に忘れられ、駅の忘れ物センターの隅で、ずっとずっと彼女が迎えに来るのを待ち続けた、長い時間。
でも、彼女は来なかった。
傘は、ただの「忘れ物」として処分され、こうしてゴミの山に辿り着いたのだ。
「うっ……」
まるで自分のことのように、胸が苦しくなる。
俺は慌てて手を離した。息が上がる。今のは、何だ?
恐る恐る、別の傘に触れてみる。
今度は、強風で骨を折られ、道端に捨てられた傘の記憶。持ち主だったサラリーマンの苛立ちと、「役立たず」と吐き捨てられた時の、深い絶望。
触れるたびに流れ込んでくる。
喜び、悲しみ、怒り、諦め。
人の想いを受け止め続けた、物言わぬ道具たちの、あまりにも人間くさい感情の奔流。
その全てが、今の俺には痛いほど伝わってきた。
これが、あの声の正体か。
忘れられ、捨てられた傘たちの、声にならない叫び。
俺はビニール傘の無機質な山の中から、あの赤い和傘を探した。
あった。
ビニール傘の下敷きになって、その小さな骨を軋ませている。俺はそっと、その小さな唐傘を両手で拾い上げた。持ち手は子供の手に合わせたように細く、赤い和紙には、今は色褪せているが、可愛らしいウサギの絵が描かれていた。
その傘に触れた瞬間、鮮明で温かい記憶が俺を包んだ。
それは、小さな女の子の記憶だった。
お祭りの縁日で、親に買ってもらったお気に入りの傘。雨の日が待ち遠しくなるくらい、大好きな宝物。
水たまりを跳ねるたびに、少女の笑い声と、和紙に当たる雨音が楽しい音楽のように響く。
少女は、傘に名前を付けていた。
『あまやどりさん』
晴れの日も、雨の日も、いつも一緒だった。
だが、時は流れる。
少女は成長し、いつしか『あまやどりさん』を使わなくなった。玄関の傘立ての隅で、何年も、何年も。
そして今日、家の建て替えに伴って、他のガラクタと一緒に捨てられてしまったのだ。
少女がもう自分のことなど覚えていないと知りながら、それでも心のどこかで、もう一度名前を呼ばれることをこの傘はずっと待ち続けていた。
「……そっか」
俺の頬を、雨とは違う温かいものが伝った。
もう迷いはなかった。俺はこのボロボロの傘を、まるで宝物のように、ぎゅっと抱きしめる。
「もう、大丈夫だよ」
囁きかける。
それは、傘に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか。
「もう寒くない。悲しくない。俺が君の名前を呼ぶから」
そうだ、名前だ。
じいちゃんが言っていた。名前を付けてやると喜ぶ、と。少女が付けた優しい名前。それを俺が受け継ごう。
「君はただの傘じゃない。ガラクタなんかじゃない」
俺は、はっきりと言葉を紡いだ。
「君は『雨宿のからかさ様』だ」
その瞬間。
俺の手の中の小さな唐傘が、ぽぅ、と淡い、蛍のような光を放った。物理的な重さとは違う、確かな存在感。魂の重み。
そして俺の魂の一部が、まるで細い糸で傘と結ばれたかのような、不思議な感覚が生まれた。
これが、最初の『神契』。
光が収まると、俺は息を呑んだ。
手の中の傘は、もうボロボロではなかった。
雨水を吸って重たげだった赤い和紙は、鮮やかな色を取り戻し、雨粒を弾いている。破れていた箇所は綺麗に塞がり、色褪せていたウサギの絵も、まるで描きたてのようにくっきりとしていた。
竹の骨組みも、煤けた色はなくなり、若竹のような青々とした輝きを放っている。
それはこの傘が、あの少女に買ってもらったばかりの、一番輝いていた頃の姿。いや、それ以上に神聖な気配さえ纏っていた。
――これが……からかさ様の、本当の姿……。
見た目が変わっても、俺にはわかる。
この傘は、俺がゴミの山から拾い上げたあの傘だ。温かい魂が宿る、俺の最初の仲間。
俺は「からかさ様」をしっかりと握りしめ、雨空を見上げた。
世界は何も変わっていない。相変わらず雨は降り続いている。でも、俺の中の何かが確実に変わろうとしていた。
この力が何なのか、まだわからない。
これから何が起こるのかも、想像もつかない。
ただ一つ確かなのは、俺はもう、彼らの声から、耳を塞ぐことはできないということだ。