幕間 巫女はため息をつく
東京神祇局に併設された職員寮。
無駄な装飾の一切ない、清潔で息が詰まるような空間。それが私の日常であり、私の世界の全てだった。
シャワーを浴び、備え付けの簡素な寝間着に着替える。鏡の前に立つと、湯気で曇った自分の顔が映っていた。
古くから神祇庁に仕え、幾人もの高名な神契者を輩出してきた名門、神楽坂家の長女。
そして、若くして富士の女神、木花咲耶姫様との契約を果たした、エリート。
それが、私。
けれど、鏡の中の私は、ひどく疲れた頼りない顔をしていた。
私は、鏡に映る自分から逃げるように、深くため息をついた。
脳裏に、あの少年の姿が蘇る。
天野宗佑。
どこにでもいる、ごく普通の高校生。少し気弱そうで、頼りなくて、お人好し。
だというのに彼は、私が討ち漏らした荒神を、信じられないような方法で無力化してみせた。
そして、橘局長の、誰もが羨むようなスカウトをいともあっさりと蹴ってしまった。
『俺は、忘れられた神様たちが、ちゃんと笑って過ごせる居場所を作りたいんです』
そう言って断ったと聞いた。
青臭い理想論。甘ったれた感傷。
頭ではそう切り捨てているのに、なぜか、その言葉が耳から離れない。
ピッ、と部屋の通信端末が鳴る。橘局長からだ。
「……神楽坂です」
『あぁ。例の天野宗佑の件だが、監視は続けろ。だが、過度な干渉はするな。泳がせておく』
「……よろしいのですか? 彼の能力は危険です。野放しにしておけば、いずれ我々の秩序を乱す要因になりかねません」
『わかっている。だが、それも計算のうちだ。案ずるな』
橘局長はそれだけを言うと、一方的に通信を切った。
計算のうち。
まただ。あの人はいつもそうだ。全てを盤上の駒のように扱い、自分の描く筋書き通りに物事を進めようとする。
それが神祇庁の正義。強大な力で秩序を維持するための、最も効率的な方法。
私はそう教えられてきた。
弱い神は、保護対象か、さもなくば切り捨てるべき存在。感傷は、判断を鈍らせる毒。
そう信じて荒神を討滅し、任務をこなしてきた。
それが神楽坂家の人間としての、私の役割なのだから。
――でも。
私は、部屋の隅に立てかけた愛剣を手に取った。鞘から抜き放つと、磨き上げられた刀身が部屋の明かりを冷たく反射する。
この剣はただの武器ではない。私の契約神、木花咲耶姫様の力をこの世に顕現させるための、大切な『依り代』だ。
神楽坂家に伝わる戦い方。それは、神をその身に宿す、古来からの秘術『神降ろし』。
けれど、今の私にはまだ、姫様の偉大な御霊をこの未熟な身に完全に宿すことはできない。それをすれば、私の精神は姫様の強大な神気に呑まれ、自我を失ってしまうだろう。
だから、私はこの剣を媒介とする。
姫様の力の一部だけを、この剣に宿して戦う。それが、今の私に許された唯一の戦い方。
安全で、安定していて、そして……あまりにも、不完全な戦い方だ。
――天野宗佑は、どうなのだろう。
ふと、疑問が浮かぶ。
彼は、あのガラクタの傘やスマホと、どうやって力を交わしているのか。
彼と神々との間には、私と姫様の間にあるような、危うさや、もどかしさのようなものがまるでないように見えた。まるで、当たり前のように隣にいる家族のように。
あの時、彼に別れ際に言ってしまった言葉。
『……死なないでくださいね』
なぜ、あんな言葉が口から出たのだろう。
あの少年が死のうが生きようが、私には関係ないはずなのに。
むしろ彼の存在は、私が信じてきた世界の正しさを、根底から揺るがしかねないイレギュラーだ。排除すべき、バグのような存在。
なのに心のどこかで、彼の行く末が気になってしまっている自分がいる。
彼がその青臭い理想を抱えたまま、どこまでいけるのか。見てみたい、と思ってしまっている自分がいる。
――私は、疲れているのかもしれない。
私はベッドに倒れ込む。
目を閉じると浮かんでくるのは、あの少年の真っ直ぐな瞳と、彼がおもちゃの唐傘をまるで宝物のように抱きしめていた姿。
私の契約神である木花咲耶姫様が、私の心に直接語りかけてくる。
『――迷っているのですね、詩織』
「……姫様。私は、弱いのでしょうか」
『いいえ。あなたは、まだ本当の自分を知らないだけです。いつか、あなたが恐れを乗り越え、この私をその身に受け入れる覚悟を決めた時、あなたは誰よりも強くなれるでしょう』
「……私に、そんな覚悟が……」
『あの少年が、そのきっかけになるやもしれませんね。彼の持つ力は、古く、そして懐かしい……』
姫様は、それ以上は語ってくださらなかった。
懐かしい、力。
その言葉の意味を、私はまだ知る由もなかった。
明日も任務がある。
私は、東京神祇局の巫女として荒神を討つ。それが私の変わらない日常。
……のはずなのに。
天野宗佑というたった一つのイレギュラーが、私の世界の歯車を、ほんの少しだけ、狂わせ始めていた。




