第11話:それぞれの道
橘が部屋を出て行ってから、数分が経っただろうか。俺はまだ、白い部屋の真ん中に立ち尽くしていた。彼の最後の言葉が、重い鎖のように体に絡みついている。
――その優しさは、いずれ君自身を滅ぼすことになる。
本当に、そうなるのだろうか。
俺のやろうとしていることは、ただの自己満足で、無謀なだけの、青臭い理想論なのだろうか。
一瞬、心が揺らぐ。
その時、手の中の神座がブルリと短く震えた。
画面には、新しいメッセージが表示されている。
『――我が主の選択を、支持する』
たったそれだけの、短い文章。
だが、その無機質なテキストの向こう側に、神座の、静かだが確かな意志を感じた。
それだけじゃない。鞄の中のからかさ様からも、ふわりと温かい気配が伝わってくる。まるで「それでいいんだよ」と、頭を撫でてくれているかのようだ。
――そうだよな。
俺は一人じゃない。
この、小さな付喪神たちが、俺の選択を信じてくれている。
それだけで十分だった。
俺は顔を上げ、部屋のドアに向かって歩き出した。神座が示す、出口への光の道筋をたどって。
長い廊下を歩いていると、曲がり角で詩織と鉢合わせになった。
彼女は壁に寄りかかって、俺が出てくるのを待っていたらしい。その表情は、どこか不機嫌そうに見える。
「……話は、終わったのですか」
「えぇ、まぁ」
「橘局長の勧誘を、断ったそうですね」
どこかで聞いていたのだろうか。彼女の言葉には、呆れと、ほんの少しの非難が混じっていた。
「……馬鹿なことをしましたね」
「そう思いますか?」
「思います。神祇庁の庇護を蹴るなんて、自殺行為も同然です。あなたのような素人が、荒神や、私達以外の悪意ある神契者……『神狩り』のような連中を相手に、一人で戦っていけると思っているのですか?」
神狩り?
また知らない単語が出てきた。
俺が問い返す前に、詩織は続けた。
「あなたは何もわかっていない。この世界の、本当の厳しさを。あなたのその感傷は何の役にも立ちません。それどころか、あなた自身と、あなたが守りたいと思っているその付喪神たちを、危険に晒すだけです」
彼女の言っていることは、橘と同じだった。
そして、多分どちらも正しいのだろう。
でも。
「それでも、俺は俺のやり方でやってみますよ」
「……そうですか」
詩織は、それ以上何も言わなかった。
ただすれ違いざまに、俺にしか聞こえないような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……死なないでくださいね」
振り返った時には、もう彼女は背中を向けて歩き去っていくところだった。
その言葉が、本心からのものなのか、それともただの気まぐれなのかは、わからなかった。
東京神祇局の物々しいゲートを抜け、地上に出ると、すっかり雨は上がっていた。
西の空は茜色に染まり、都会のビル群のシルエットを黒々と浮かび上がらせている。
ほんの数時間前の出来事が、まるで別世界の夢だったかのように、東京はいつも通りの喧騒を取り戻していた。
でも、俺の世界はもう元には戻らない。
俺は、ズボンのポケットから神座を取り出す。ひんやりとした感触が、現実であることを教えてくれる。鞄の中からは、からかさ様の穏やかな気配。俺は彼らと共に、この世界で生きていくのだ。
「さて、と」
俺は一つ、大きく伸びをした。
これからどうなるか、全くわからない。橘の言った通り、すぐに後悔する日が来るのかもしれない。
でも、不思議と心は晴れやかだった。
「帰ろうか。俺たちの家に」
俺は「からかさ様」をしっかりと握りしめ、アパートの自室のドアを開けた。シン、と静まり返った誰もいない部屋。一年前にじいちゃんが死んでから、この静寂にはもう慣れたはずだった。
海外で働く両親から、毎月十分すぎるほどの金は振り込まれてくる。でも、この胸にぽっかりと空いた穴だけは何をやっても埋まらなかった。
けど、今日は少しだけ違う。
手の中のからかさ様から、確かな温かい気配が伝わってくる。ポケットの中の神座も、ブルリと震える。
「……おかえり」
そんな声が聞こえた気がした。俺は初めて、誰もいない部屋に向かって、ぽつりと呟いた。
「……ただいま」




