第10話:感傷と、決別と
俺の問いに、橘の顔から一瞬だけ笑みが消えた。
すぐに柔和な表情に戻ったが、その瞳の奥には、温度のないガラス玉のような冷たい光が宿っているのを俺は見逃さなかった。
それは、予期せぬ質問をされた者が、一瞬だけ剥き出しにした本心の色だった。
「……それは、仕方のないことだよ、宗佑君」
橘は、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のような、落ち着き払った口調で言った。
「この国には神様が多すぎる。八百万の神々という言葉があるように、その全てを我々が把握し保護することなど、物理的に不可能なのだよ。君が拾った傘や、そのスマートフォンのように、我々の目が届く前に誰にも知られず消えていく神々など、それこそ星の数ほどいる」
「……」
彼の言葉は正論だった。正論だからこそ、どうしようもなく冷酷に響く。
俺は反論しようと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
「我々にできるのは、社会に大きな影響を与えうる、強力な神格を持つ神々を優先的に管理すること。例えば、詩織君が契約する木花咲耶姫のような、神話に名を連ねる高名な神々だ。そして、秩序を乱す荒神を速やかに討滅すること。それ以外は、残念ながら切り捨てるしかない。我々の人的、霊的リソースには限りがあるからね」
切り捨てる。
その言葉が、鋭いナイフのように俺の胸に突き刺さった。
からかさ様も、神座も、あの縁結びの神様も、この人たちにとっては「切り捨てられた」存在。統計上の数字。ただそれだけなのだ。
――やっぱり、この人たちはわかってない。
彼らがどれだけの想いを抱えて、どれだけ寂しい思いをしてきたか。
強い神も、弱い神も、その魂の重さに違いなんてないのに。彼らにとっては、それは感傷でしかない。非効率な切り捨てるべき感情なのだ。
神座の画面に表示された『思考サマリー』が、彼の言葉を裏付けていた。『権益拡大』『独占欲』『支配欲』。そこに、神々への敬意や慈しみの文字はどこにもなかった。
「君の言いたいことはわかる。感傷的で、優しい心を持っているんだな。それは美徳だ。だが、我々は組織だ。社会の安寧という大義のためには、時に非情な判断も必要になる。一人の感傷で、万人の平和を危険に晒すわけにはいかないだろう?」
「それが、神祇庁のやり方なんですか」
「そうだ」
橘は、きっぱりと言い切った。
その揺るぎない態度、絶対的な正義を信じて疑わない瞳を見て、もう迷いはなかった。
ここで彼らの仲間になることは、からかさ様や神座の心を踏みにじることと同じだ。
「お断りします」
静かだが、はっきりとした声が出た。
俺の言葉に、橘は「……何?」と、初めて心の底から意外だという顔で聞き返した。彼の描いていたシナリオでは、俺は喜んで頷くはずだったのだろう。
「俺は神祇庁には入りません。あなたの言う英雄にもなりません」
俺は、橘を真っ直ぐに見据えた。
恐怖はあった。この巨大な組織に逆らって、ただの高校生である俺に何ができるのか。だが、それ以上に譲れないものが胸の中にあった。
手の中の神座が、俺の決意に応えるかのように、かすかな熱を帯びる。鞄の奥で眠っているからかさ様からも、温かい気配が伝わってくるようだった。
「強いとか、弱いとか、役に立つとか、立たないとか、そんなの関係ない。俺は、忘れられた神様たちが、ちゃんと笑って過ごせる居場所を作りたいんです。それがガラクタ置き場でも、俺の狭いアパートの一室でもいい。ちゃんと『ここにいていいんだ』って、安心して笑える場所を」
それが、今の俺にできる唯一のことだと思った。
俺の言葉を聞き終えると、橘はしばらく黙って俺を見ていたが、やがてふっと息を漏らすように笑った。
「……青いな。あまりにも青すぎる」
その笑みは、嘲りでも、怒りでもなかった。
まるで、眩しいものを見るような、あるいは遠い昔に捨ててきた何かを懐かしむような、複雑な色をしていた。
「いいだろう。君の意思は尊重する。今の君を無理に縛り付けても、良い結果は生まれんからな」
意外にも、橘はあっさりと引き下がった。
彼は俺の横を通り過ぎ、部屋の出口へと向かう。
「だが一つだけ忠告しておこう、天野宗佑君」
ドアノブに手をかけ、橘は振り返った。
その目は、再びあの冷たいガラス玉のような色に戻っていた。
「その青臭い理想と優しさは、いずれ君自身を滅ぼすことになる。守るべきものが増えれば増えるほど、君は弱くなる。そして、自分の無力さを呪い、我々の庇護が喉から手が出るほど欲しくなる日が、必ず来る」
それは予言のようでもあり、呪いのようでもあった。
それだけを言い残し、橘は部屋を出て行った。
一人残された部屋で、俺は神座の画面を見つめていた。
俺の進むべき道は、もう決まった。たとえそれが、いばらの道だとしても。




