この国には神様が多すぎる
瀝青の闇に、銀の雨が突き刺さる。
アスファルトを叩く音、ネオンの滲む音、遠くを走るサイレンの音。その全てが混ざり合い、東京という街の単調なノイズを奏でていた。
誰も気づいていない。
このありふれた雨の夜に、世界がほんの少しだけ悲鳴を上げていることになど。
「――クッ、なんて数なの……!」
渋谷、スクランブル交差点。
普段ならば傘と喧騒で埋め尽くされるその場所は今、不気味なほどに静まり返っていた。
行き交う人は一人もおらず、巨大なビジョンも、けたたましい広告音も、全てが沈黙している。まるで、世界からこの一角だけが切り取られてしまったかのように。
そんな非現実的な空間の中心で、一人の少女が荒い息を繰り返していた。
巫女装束を現代的にアレンジしたような緋色の衣を纏い、その手には桜の花びらを象った優美な長剣が握られている。
神々の秩序を守るべく、人知れず戦う現代の巫――『神契者』である。
「詩織! 無理はするな! 奴らはただの荒神じゃない!」
通信機から飛ぶ焦燥に満ちた声に、彼女は「わかっています!」と鋭く返す。
視線の先。
そこにいるのは、人ではない。
人の想いが歪み、神としてのカタチを失った、哀れな成れの果て。
赤信号の向こう側、センター街の入り口に、一体。
ハチ公像の影に、一体。
109ビルの屋上に、また一体。
そのどれもが、ねじくれた電線や錆びた標識、砕けたアスファルトなどが寄り集まってできた、冒涜的な姿をしていた。かつてこの街の片隅で、誰かに名前を呼ばれるのを待っていた、小さな神々のなれの果て。
「我が剣に宿れ、気高き山の姫……! 木花咲耶姫!」
詩織の呼び声に応じ、剣が灼熱の光を放つ。
神話に謳われる、富士の女神。炎と桜を司る、高貴なる神。その力は、並の荒神であれば一振りで浄化できるほどに強大だ。
しかし――。
「桜華一閃!」
炎を纏った斬撃が宙を奔る。
それはセンター街入り口の荒神を正確に捉える――しかし、甲高い音を立てて弾かれた。
荒神の核となっている、古びたマンホールの蓋。そこに刻まれた区の紋章が、一瞬だけ鈍い光を放った。
「なっ……!?」
驚愕する詩織の隙を突き、ハチ公像の影から第二の荒神が地を滑るようにして襲いかかる。
咄嗟に剣で受け止めるが、叩きつけられた衝撃は凄まじい。濡れたアスファルトの上を、詩織の身体が数メートルも押しやられた。
――硬い……! だけじゃない。こいつら、連携している……?
まるで、一つの意志の下に動いているかのようだ。
一体が盾となり、一体が攻撃する。屋上の個体は、詩織の死角を常に狙っている。
忘れられた神々が寄り集まっただけの、烏合の衆のはず。こんな統率された動きなど、ありえない。
――誰かが、指揮している?
その結論に至った瞬間、全身の産毛が総毛立った。
雨音が、一瞬だけ途切れる。
代わりに聞こえたのは、静かで、それでいて底なしの絶望を感じさせるような、男の声だった。
『――哀れだろう?』
声は、四方から響いてくる。
この世界から切り離された『境界領域』そのものが、鳴動しているかのようだ。
『忘れられ、捨てられ、名前さえ失くした者たちだ。だが、それでも彼らは在る。在ってしまうのだ。ならば、新たな役割を与えねばなるまい』
「誰……! どこにいるの!」
『我らは、ただ取り戻したいだけだ。天津神に奪われ、人に忘れ去られた、我らの国を』
ぞわり、と。詩織の背筋を、神話の時代から続くような根源的な恐怖が駆け上がった。
木花咲耶姫。天津神の系譜に連なる彼女が、本能的に震えている。目の前の敵が強大な存在であることを告げていた。
屋上の荒神が、ゆっくりと動き出す。
その腕が、巨大なクレーンのようにしなり、狙いを定めたのは――境界領域の外。
まだ平和な日常が続いている、現実世界。
「まさか……! やめなさい!」
境界を破壊する気だ。
そうなれば、この戦いは隠蔽できない。渋谷のど真ん中に、神話の怪物たちが姿を現すことになる。
そうなれば、もう終わりだ。
詩織は最後の力を振り絞り、地を蹴った。
間に合わない。絶望が脳裏をよぎる。
その、刹那だった。
「――間に合ったか」
場違いなほどに、穏やかな声だった。
詩織と荒神たちの間に、いつの間にか一人の少年が立っていた。
ごく普通の学生服を着て、手にはなぜか、ウサギの絵があしらわれた子供用の赤い唐傘を差している。
「宗佑!」
詩織が少年の名前を叫ぶ。
少年は迫りくる荒神の腕を見上げ、手に持ったおもちゃの唐傘を前に突き出す。
まるで、大切な誰かを守るように。
直後。
荒神の剛腕が、少年を――いや、その傘を、叩き潰さんと振り下ろされた。
轟音。
詩織は、思わず目を閉じる。
だが、想像していたような悲劇の音は、いつまで経っても聞こえなかった。
おそるおそる目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
あの、詩織の炎の剣さえ弾いた荒神の一撃が。
たった一本の、おもちゃの唐傘によって、完璧に受け止められていた。
傘には傷一つ付いていない。
「な……」
呆然とする詩織の前で、少年は傘を握りしめたまま静かに呟いた。
それは、誰に言うでもない優しい語りかけ。
「ありがとう、助かったよ。――雨宿のからかさ様」
少年の声に応えるように、赤い唐傘が、ぽぅ、と淡い光を放った。
この国には、神様が多すぎる。
そして、まだ誰も知らない。
打ち捨てられたガラクタに宿る神の名を呼ぶ、この少年こそが、忘れられた八百万の神々を率い、この国の神話そのものを覆す存在になるということを。
これは、そんな彼と、彼に名前を呼ばれた神々の戦いの物語である。
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