表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

98/194

『裏の歳月、表の静けさ』

 歴史のうねりとは、時に何も起こらぬ日々によって生まれるのかもしれない。剣を交えず、矢を放たず、ただ策をめぐらし、人を動かす。戦国とは、血を流す前の濁流のような日々のことであった。


 俺、伊達藤次郎──この時まだ齢六つ──が仕掛ける戦の幕は、血ではなく、噂と嘘と信念で滲みはじめていた。


 時は天正元年の冬の終わり。


 相馬家が大内定綱の旧領に向けて軍を進める動きを見せた、という報せが入ったのは、米沢城二の丸館の大広間で、虎哉和尚の厳しい論語問答から逃げ出した直後だった。


「藤次郎様、相馬方より進軍の兆しありとの急使が……」


 報せを告げたのは、鬼庭左月の配下の若者で、顔には雪を切り裂いた跡が赤く走っていた。


 俺は息を呑むより先に、懐から筆を取り出していた。


「見せかけか、それとも本気か……」


 この問いの答えが、すべてを分ける。


 もしそれが本当ならば、伊達家の守りは乱れる。だが、それがただの陽動であれば、騙された方が愚か者となる。


 俺は黒脛巾組の伊佐に命じていた。相馬の動向、そして佐竹家をはじめとする諸国への風聞の拡散──『相馬は疲弊しておる』『金も兵も尽きかけておる』『兵たちは離反寸前である』。


 これらの偽情報を、黒脛巾たちは南から北まで、まるで霧のように広げていた。


 情報戦とは、信じさせた者が勝つ。真実はひとつでも、信じられる話は千にも万にもなる。


 信じた者が動くのだ。


 だから俺たちは、動かない。


 今はまだ。


 遠藤基信が渋い顔で言った。


「若、兵を動かさねば、大内殿の領が……」


「いや、動かぬ。……まだ」


 俺は茶を啜りながら答えた。


「これが、相馬がこちらを試しているだけなら? もしそれに応じて我らが兵を割けば……逆に突かれる箇所が生まれる」


 鬼庭左月が唸った。


「だが、黙って見過ごせば、奴らは本気になるぞ」


「だからこそ、こちらは先に“答え”を出しておく必要がある」


 俺は静かに巻物を広げる。


 そこに描かれていたのは、いくつかの軍用道路、補給経路、そして“見せるべき虚”の位置。


「──この冬の間に、我らが何をしたかを、相馬に“誤認”させる。

 こちらが攻め入る気満々であると、奴らに思わせねばならぬ」


 戦わずして、恐怖と混乱を植えつける。


 俺たちの動きは、すでに“敵兵の目”に晒されている。


 畑に突如として現れた軍勢のような訓練場、山中に築かれた仮設兵舎。


 そして──連弩。


 あの異形の武器が、音もなく運び込まれ、整備され、鍛えられ続けている。


 俺はその製造管理にも関わっていた。細部の調整に至るまで、職人と共に汗を流し、時には子どもの手を装って小刀の砥ぎさえやってのけた。


 その結果、兵たちは俺を畏れ、同時に信じ始めた。


 ──まさか六つ児の指導が、ここまで緻密で、鋭いとは。


 俺は彼らに口を酸っぱくして言った。


「武器とは、数ではない。使い手の心だ」


 だが、数もあるに越したことはない。


 黒脛巾の情報で、相馬が動揺していることは確実となった。

 彼らは兵を前線に置きながら、補給を渋っている。

 背後に、我らが偽情報の網が絡みついているからだ。


 そして、今年が暮れる──。


 大きな戦などひとつもなかった。


 だが、裏では確かに、戦は始まっていた。


 火花は、まだ見えぬところで、確かに燻っていたのだ。


 そして来年。


 燻りは、必ずや風を得て、焔となる。


 そのとき、相馬が何を見て、どう動くか。


 ──その時が、俺の戦の“始まり”だ。


 そう、戦国の火種は、雪の下でも熱を失わないのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ