『裏の歳月、表の静けさ』
歴史のうねりとは、時に何も起こらぬ日々によって生まれるのかもしれない。剣を交えず、矢を放たず、ただ策をめぐらし、人を動かす。戦国とは、血を流す前の濁流のような日々のことであった。
俺、伊達藤次郎──この時まだ齢六つ──が仕掛ける戦の幕は、血ではなく、噂と嘘と信念で滲みはじめていた。
時は天正元年の冬の終わり。
相馬家が大内定綱の旧領に向けて軍を進める動きを見せた、という報せが入ったのは、米沢城二の丸館の大広間で、虎哉和尚の厳しい論語問答から逃げ出した直後だった。
「藤次郎様、相馬方より進軍の兆しありとの急使が……」
報せを告げたのは、鬼庭左月の配下の若者で、顔には雪を切り裂いた跡が赤く走っていた。
俺は息を呑むより先に、懐から筆を取り出していた。
「見せかけか、それとも本気か……」
この問いの答えが、すべてを分ける。
もしそれが本当ならば、伊達家の守りは乱れる。だが、それがただの陽動であれば、騙された方が愚か者となる。
俺は黒脛巾組の伊佐に命じていた。相馬の動向、そして佐竹家をはじめとする諸国への風聞の拡散──『相馬は疲弊しておる』『金も兵も尽きかけておる』『兵たちは離反寸前である』。
これらの偽情報を、黒脛巾たちは南から北まで、まるで霧のように広げていた。
情報戦とは、信じさせた者が勝つ。真実はひとつでも、信じられる話は千にも万にもなる。
信じた者が動くのだ。
だから俺たちは、動かない。
今はまだ。
遠藤基信が渋い顔で言った。
「若、兵を動かさねば、大内殿の領が……」
「いや、動かぬ。……まだ」
俺は茶を啜りながら答えた。
「これが、相馬がこちらを試しているだけなら? もしそれに応じて我らが兵を割けば……逆に突かれる箇所が生まれる」
鬼庭左月が唸った。
「だが、黙って見過ごせば、奴らは本気になるぞ」
「だからこそ、こちらは先に“答え”を出しておく必要がある」
俺は静かに巻物を広げる。
そこに描かれていたのは、いくつかの軍用道路、補給経路、そして“見せるべき虚”の位置。
「──この冬の間に、我らが何をしたかを、相馬に“誤認”させる。
こちらが攻め入る気満々であると、奴らに思わせねばならぬ」
戦わずして、恐怖と混乱を植えつける。
俺たちの動きは、すでに“敵兵の目”に晒されている。
畑に突如として現れた軍勢のような訓練場、山中に築かれた仮設兵舎。
そして──連弩。
あの異形の武器が、音もなく運び込まれ、整備され、鍛えられ続けている。
俺はその製造管理にも関わっていた。細部の調整に至るまで、職人と共に汗を流し、時には子どもの手を装って小刀の砥ぎさえやってのけた。
その結果、兵たちは俺を畏れ、同時に信じ始めた。
──まさか六つ児の指導が、ここまで緻密で、鋭いとは。
俺は彼らに口を酸っぱくして言った。
「武器とは、数ではない。使い手の心だ」
だが、数もあるに越したことはない。
黒脛巾の情報で、相馬が動揺していることは確実となった。
彼らは兵を前線に置きながら、補給を渋っている。
背後に、我らが偽情報の網が絡みついているからだ。
そして、今年が暮れる──。
大きな戦などひとつもなかった。
だが、裏では確かに、戦は始まっていた。
火花は、まだ見えぬところで、確かに燻っていたのだ。
そして来年。
燻りは、必ずや風を得て、焔となる。
そのとき、相馬が何を見て、どう動くか。
──その時が、俺の戦の“始まり”だ。
そう、戦国の火種は、雪の下でも熱を失わないのだ。