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『虚を衝け、風に紛れて』

情報とは、刃よりも鋭く、毒よりも深く、戦よりも速くして敵を蝕む。


城内の静寂が、やけに耳に刺さる朝だった。


目覚めてすぐ、私は書院の障子を細く開けて外を覗く。春まだ浅い米沢の空気は刺すように冷たく、それでいて、肺に満ちると不思議と落ち着いた。


今日という日は、何かを偽ることから始まる。いや、“仕掛ける”というべきか。


「伊佐、黒脛巾くろはばき共は既に動いておるな?」


寝間のすぐ脇、柱の陰からすっと現れたのは、黒装束の小柄な影――伊佐だ。黒脛巾組のくノ一の中でも、頭ひとつ抜けた才気と冷静さを持つ。


「はい。今宵、越河の関守に変装した者が佐竹家の間者を誘導いたします。例の『相馬領内で疫病流行』の件、今朝には既に白河方面へも伝わるでしょう」


「でかした。あとは、如何に信じ込ませるか……だな」


私は一息ついて、帳面を開いた。戦は、まず心から崩すもの。敵に『攻めれば勝てる』と思わせるより、『今攻めれば損をする』と思わせる方が、はるかに効く。藤次郎――この名を貰ってから、私はより深く戦を考えるようになった。


「越河の商人たちの会話にも、偽情報を混ぜました。『相馬の兵たちは疲弊して、兵糧も底をつきかけている』と」


「“侍女の世間話”も忘れるなよ。井戸端こそ最強の戦場だ」


「心得ております」


伊佐が静かに笑う。


私は机の脇に置いていた地図を広げた。相馬、佐竹、蘆名――すべてが繋がる土壌をこの地に築きつつある。情報とは網のようなもので、一筋でも巧く織れば、獣は自然と罠に嵌る。


「定綱は、相馬からの牽制が始まっていると報告してきたが……こちらからは何もせずとも、敵が疲れていく、そんな戦をしたい」


実際、相馬の軍勢は定綱の旧領に向けて兵を動かしてはいる。だがそれは、我らの『沈黙』という強かさの前では、焦りの現れに過ぎぬ。



その日の午後、片倉小十郎が報告に来た。


「御前、佐竹方の小姓が密かに馬を飛ばして白石へ向かったとのこと。どうやら例の噂、信じ込んだ様子にございます」


「早いな。相馬の疫病と、内部対立の件、どちらが効いた?」


「内部対立の話でしょうな。『金澤城で家老と若侍が刀を抜いた』との作り話、案外真実味があると……」


「はは、やはり“本当っぽい嘘”が一番効く」


私は机に肘をついて考え込む。相馬、佐竹、蘆名の三者に不信を植えつけること。それが目的だ。実際、誰かが信じればいい。その“誰か”が別の“誰か”を疑い、やがて疑念は拡がる。


「次は、佐竹と蘆名の間にも種を蒔け。『蘆名が相馬と密かに和睦』という形でな」


「了解しました。黒脛巾組を分けて、小野の僧侶に扮した者が会津へ入り込ませます」


「……見えぬ矢こそ、最も恐ろしい」


私はそう呟いた。敵の胸を射抜くのは、刀や槍ではない。見えぬ疑心と、聞こえぬ噂話だ。



その夜、私は書院の灯火の下で、一人、硯に筆を落とした。


“戦わずして勝つ”――それは夢ではない。


父上ならば、否と言っただろう。

「誇りなき勝利に、何の意味がある」と。


だが、私はまだ六歳の子供だ。


正面からぶつかって、勝てるほどの兵力も、経験もない。ならば、知恵と工夫で、戦を操るしかない。


黒脛巾の者たちは、また闇に紛れて出て行った。


誰にも気づかれず、風のように現れ、風のように去りながら、敵の心を穿つ。


そして私は、彼らの足音の消えた先に思いを馳せながら、筆を置いた。


勝利は、目に見えぬところで始まっている。


それを知る者だけが、次の戦で血を流さずに済むのだ。


(了)

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