『虚を衝け、風に紛れて』
情報とは、刃よりも鋭く、毒よりも深く、戦よりも速くして敵を蝕む。
城内の静寂が、やけに耳に刺さる朝だった。
目覚めてすぐ、私は書院の障子を細く開けて外を覗く。春まだ浅い米沢の空気は刺すように冷たく、それでいて、肺に満ちると不思議と落ち着いた。
今日という日は、何かを偽ることから始まる。いや、“仕掛ける”というべきか。
「伊佐、黒脛巾共は既に動いておるな?」
寝間のすぐ脇、柱の陰からすっと現れたのは、黒装束の小柄な影――伊佐だ。黒脛巾組のくノ一の中でも、頭ひとつ抜けた才気と冷静さを持つ。
「はい。今宵、越河の関守に変装した者が佐竹家の間者を誘導いたします。例の『相馬領内で疫病流行』の件、今朝には既に白河方面へも伝わるでしょう」
「でかした。あとは、如何に信じ込ませるか……だな」
私は一息ついて、帳面を開いた。戦は、まず心から崩すもの。敵に『攻めれば勝てる』と思わせるより、『今攻めれば損をする』と思わせる方が、はるかに効く。藤次郎――この名を貰ってから、私はより深く戦を考えるようになった。
「越河の商人たちの会話にも、偽情報を混ぜました。『相馬の兵たちは疲弊して、兵糧も底をつきかけている』と」
「“侍女の世間話”も忘れるなよ。井戸端こそ最強の戦場だ」
「心得ております」
伊佐が静かに笑う。
私は机の脇に置いていた地図を広げた。相馬、佐竹、蘆名――すべてが繋がる土壌をこの地に築きつつある。情報とは網のようなもので、一筋でも巧く織れば、獣は自然と罠に嵌る。
「定綱は、相馬からの牽制が始まっていると報告してきたが……こちらからは何もせずとも、敵が疲れていく、そんな戦をしたい」
実際、相馬の軍勢は定綱の旧領に向けて兵を動かしてはいる。だがそれは、我らの『沈黙』という強かさの前では、焦りの現れに過ぎぬ。
◇
その日の午後、片倉小十郎が報告に来た。
「御前、佐竹方の小姓が密かに馬を飛ばして白石へ向かったとのこと。どうやら例の噂、信じ込んだ様子にございます」
「早いな。相馬の疫病と、内部対立の件、どちらが効いた?」
「内部対立の話でしょうな。『金澤城で家老と若侍が刀を抜いた』との作り話、案外真実味があると……」
「はは、やはり“本当っぽい嘘”が一番効く」
私は机に肘をついて考え込む。相馬、佐竹、蘆名の三者に不信を植えつけること。それが目的だ。実際、誰かが信じればいい。その“誰か”が別の“誰か”を疑い、やがて疑念は拡がる。
「次は、佐竹と蘆名の間にも種を蒔け。『蘆名が相馬と密かに和睦』という形でな」
「了解しました。黒脛巾組を分けて、小野の僧侶に扮した者が会津へ入り込ませます」
「……見えぬ矢こそ、最も恐ろしい」
私はそう呟いた。敵の胸を射抜くのは、刀や槍ではない。見えぬ疑心と、聞こえぬ噂話だ。
◇
その夜、私は書院の灯火の下で、一人、硯に筆を落とした。
“戦わずして勝つ”――それは夢ではない。
父上ならば、否と言っただろう。
「誇りなき勝利に、何の意味がある」と。
だが、私はまだ六歳の子供だ。
正面からぶつかって、勝てるほどの兵力も、経験もない。ならば、知恵と工夫で、戦を操るしかない。
黒脛巾の者たちは、また闇に紛れて出て行った。
誰にも気づかれず、風のように現れ、風のように去りながら、敵の心を穿つ。
そして私は、彼らの足音の消えた先に思いを馳せながら、筆を置いた。
勝利は、目に見えぬところで始まっている。
それを知る者だけが、次の戦で血を流さずに済むのだ。
(了)