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『戦わずして、膝を折らせよ』

 人の気配で目が覚めた。障子越しに射す朝の陽が、わずかに赤みを帯びていた。まるで血を孕んだ空のように。


「殿──」


 障子の外から、低く抑えた声。小十郎だった。


「入れ」


 声を返すとすぐに、彼は静かに襖を開け、膝を突いた。普段は堅物な彼も、今朝はどこか急いているように見えた。眉間の皺が深い。


「相馬の軍勢、動きありとの報せが入りました。大内様の旧領、八巻に向け進軍を開始した模様」


 頭の中が一瞬白くなる。それは恐怖ではない。むしろ、ようやく来たかという感覚だった。


「どれほどの兵か」


「斥候の数より察するに、千にも満たぬ程度。ただし、偵察に紛れて策を弄しているやもしれません」


 小十郎が言葉を選ぶのは、私の年齢を慮ってのことではない。たとえ六つの子供であっても、主であれば、判断を下さねばならぬのだ。


 私はゆっくりと身を起こし、床に足をつける。目の奥に残る眠気が、燃えるような計略の熱で吹き飛んでいく。


「見せしめだな。こちらに本気で戦を仕掛けるつもりなら、もっと大軍で来るはずだ」


「左様にございます」


 小十郎が頷く。まるで心の声を映す鏡のような男だ。


 私は立ち上がる。裾を踏んで転びかけたが、そこは誤魔化して胸を張る。……まだ小さきこの身体では、威厳を保つのも一苦労だ。


「相馬に一つ教えてやる。伊達は、子供相手の見せかけで怯むほど、腑抜けてはおらぬと」


 朝の膳を運んできた喜多に、白米を三杯平らげてみせ、茶を飲み干す。


「……殿、戦が始まるのですか?」


 茶を注ぎながら訊く彼女の声が、少しだけ震えていた。


「まだだ。だが、始めさせてはならぬ。戦などというものは、始めぬのが最良。始まってしまえば、皆が損をする」


 私は茶碗を置き、膳の前で手を合わせた。武士の家に生まれたが、殺し合いなど願い下げだ。だが、守るためには見せねばならぬ。牙と、火と、冷酷さを。


 ◇


「連弩隊の演習を、八巻の境界にて行います」


 私の一言に、重臣たちは目を見開いた。遠藤基信が眉をひそめ、鬼庭左月が唇を引き結ぶ。だが、誰一人反対はしなかった。


「敵が仕掛けてきたのでございます。見せておくべきでしょう、伊達の牙を」


 大内定綱が、膝を揃えて進み出る。


「彼奴らの心根は、威を示せば簡単に折れましょう。私がその証」


 まるで自嘲のように笑って言う定綱の背を見て、私は内心苦笑する。なにせ三十路過ぎの男が、六歳児に忠誠を誓って平伏しているのだ。世の理不尽もここに極まれり。


 ◇


 八巻の境界近く、旧大内領地の一角。連弩隊の設営と演習地の選定はすでに終えていた。


「連射三度!構え──撃てッ!」


 鋭い号令が響くたび、無数の矢が一斉に放たれ、標的の藁人形が蜂の巣となる。山間に響き渡る乾いた音。


 それを見つめる兵たち、そして、見えぬ敵への威嚇。


「よし。次は夜間に焚火を焚き、弩の影を映しておけ。三倍に見せかけるんだ」


「御意!」


 私は密かに配置した黒脛巾組の伊佐へ、近隣の農家に風聞を流すよう命じる。『伊達に鬼の連弩あり』と。


「子供が戦をするのか」などと侮る者こそ、最も痛手を負うのだ。


 私はこの小さき掌に、信じられぬほどの力が宿っていることを知っている。


 だからこそ、使うのだ。言葉を、影を、そして恐怖を。


 それが、戦わずして膝を折らせる道。


 そして、戦を止める唯一の術。

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