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『影、花の香に笑う』

この世に生きる女の道が、忍びの道だなんて誰が決めたんだろう。


私の名は伊佐。黒脛巾組のくノ一。だけどただの忍びじゃない。今の私は、藤次郎様――まだ六歳でありながら、戦国の荒波の中で伊達家を導くあのお方の“影”だ。


今宵も闇の中を滑るように走りながら、ふと鼻をかすめる春の花の香りに小さく笑う。


影は影らしく、香りを纏うことすら贅沢かもしれない。でも、笑ってしまうのだ。この香りの向こうにある未来を思うと。



「伊佐、そろそろだ。」


頭領の声が闇の中で響く。


相馬家家臣の屋敷の裏手、まだ雪の残る藁葺きの陰で身を低くする。月明かりが雪に反射し、周囲を白く照らす中、私たちは息を殺していた。


「了解っしょ。」


軽口を叩くと、小夜が横で苦笑する。


「伊佐、気を抜くと斬られるわよ。」


「わかってるっしょ。」


でも、それでも口角は上がる。あの藤次郎様が描いた絵図に従って動くことが、私には誇らしかった。


あの小さな背中が、何十人、何百人の兵よりも頼もしく見える。あの背中が戦場を制し、私たちはその影として動く。それが私の“生きる意味”になっていた。



今夜の仕事は、相馬家の家臣、和泉守義成の調略。


夜半、義成の屋敷裏の柵を越える。雪を踏む音を消すように、足裏全体で押しつぶすように歩く。私と小夜、そして頭領、三人の息遣いだけが聴こえる。


「伊佐、行け。」


頭領が小さく囁くと同時に、私は屋敷の板戸をするりと開けて中に滑り込む。暗がりの中に微かに灯る油皿の灯り。義成はまだ起きていた。


「……誰だ。」


鋭い声にすぐさま膝をつき、顔を上げる。


「相馬家の和泉守義成殿で間違いありませんね。」


「何者だ貴様……!」


刀の柄に手をかける義成の目は怒りに燃えていたが、その奥に見えるのは恐れだった。


「私は伊達家の影の者。今宵、あなた様にお伝えしたいことがあって参りました。」


「伊達家だと?この夜中に、女が一人で忍び込んできて何の用だ!」


「用は一つ。義成様、あなたの未来を救う話です。」


口角を上げた瞬間、自分でも戦国時代のくノ一らしくない笑みを浮かべているのがわかった。でも構わない。これは私の戦い方だ。


「馬鹿を言うな!相馬の家臣であるこの私に、伊達の女忍びが何を言う――」


「今、相馬家は負け戦を続けている。義成様、あなたも気づいておられるでしょう?」


「……何?」


「相馬の当主は血を流すことしか知らない。あなたの家も、いつか無意味な戦で潰される運命だ。」


「黙れッ!」


「黙りません。」


私は座したまま義成の目を見据えた。


「伊達は違います。私たちの主君は血を流さず勝つ道を選ばれる。その力をこの目で見ました。」


小さな藤次郎様の背中を思い浮かべる。


あの夜、寺で大内定綱を屈服させた声。相馬軍を静矢で退け、戦わずして勝ちを得た策。


あれは、戦国の中で血に染まらずに勝つ奇跡だった。


「義成様、あなたの家を守りたいなら、伊達の旗を選ぶべきです。」


「……。」


義成が刀から手を離した。


「伊達家は、私の家を守ってくれると?」


「伊達家が、ではありません。」


顔を上げると、油皿の灯りが揺れて私の影を長く伸ばす。


「藤次郎様が、あなたの家を守ります。」



外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


「……やるじゃない。」


小夜が肩をすくめる。


「ま、あれくらい余裕っしょ。」


「顔が笑ってるわよ。」


「藤次郎様を想えば、笑うしかないでしょ。」


小夜が小さく笑う。その笑顔が一瞬で消えるのを見逃さなかった。


「……また、殺す日が来るかもしれないわ。」


「わかってる。」


私たちはくノ一だ。調略が失敗すれば暗殺へ切り替えるのが任務だ。


それでも。


「でも、藤次郎様の未来を守るためなら、やるしかないっしょ。」


夜空を見上げると、冬の星と春の星が交わる夜空だった。


あの小さな背中が、いつか大きくなる。その時には、血を流さずに勝つ世の中を作ってくれると信じている。


その未来を護るためなら、私たちはどんな闇の中でも走り続けられる。



夜明け前、米沢城二の丸に戻ると藤次郎様が地図の前で座していた。


まだ六歳なのに、その目は大人のそれ以上に鋭くて優しい。


「報告、終わったか?」


「はい、藤次郎様。」


「ありがとう。任せた。」


ただそれだけ。小さな声なのに、その言葉が全身を貫く。


伊達藤次郎――あのお方のためなら、どんな血でも踏み越えてみせる。


私たちは影。だけどその影の奥で、未来の光を護り続けている。


笑顔で。時に泣きながら。


春の風が吹いた。


(行こう。次の仕事が待ってる。)

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