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『春雷、二の丸にて動く』

米沢城の石垣が、雪解けの水を滴らせていた。陽が差せば水蒸気が立ち上り、かすかに硝煙と土の匂いが混じった城下の空気を濃くする。


俺は藤次郎。伊達家嫡男、だがまだ六歳。梵天丸と呼ばれた名を越えたその瞬間から、景色の色が一段濃くなった気がした。


俺の目の前で、大内定綱が膝をつく。


「藤次郎様、これより相馬家家臣団調略の件、命の限りお仕えいたします。」


その横で黒脛巾組の頭領が、伊佐と小夜を伴い、静かに一礼する。


「影にて相馬を砕きます。」



米沢城二の丸館へ移るその日は、春だというのに山風が刺すように冷たかった。だが心は熱かった。俺はすでに、自分が政宗と呼ばれる未来の地平を見据えていた。


「これより、この二の丸が我が戦の根となる。」


城内を歩きながら、軋む板の音すら血潮のように感じる。俺の歩みがここから伊達の命脈を運命ごと変えるのだ。


「藤次郎様、お疲れでしょう、どうぞこちらへ。」


喜多が柔らかな笑顔を向ける。だがその目は笑っていない。


(ああ、こいつ、俺がまた無茶をしでかすのを見抜いてるな……)


だが、それでいい。喜多が俺を睨むときは、俺が正しい道を歩もうとしているときだ。



二の丸館の奥の間へ入ると、黒脛巾組の忍びたちがすでに座していた。伊佐と小夜が侍女の姿で控えながらも、わずかな隙を見逃さず、吐息ひとつにまで注意を張り巡らせている。


「藤次郎様、調略対象の相馬家家臣団の名を。」


忍びの頭領が低く言った。


俺は深く息を吐き、用意していた和紙の巻物を広げる。そこには、令和の知識を総動員し、さらに黒脛巾組から得た情報で最新の修正を加えた相馬家家臣団の関係図と弱点がびっしりと書き込まれている。


「この者たちだ。」


指先が滑るたびに、伊佐と小夜がその名を復唱し、特徴、性格、家族構成、領地の位置、私欲、敵対関係、弱点……すべてを記憶していく。


俺はそれを見つめながら、一つひとつ、その人間の未来を決めている自覚があった。



「伊達に寝返る気がない者は?」


「……。」


頭領が一瞬言葉を止める。


「暗に処理しろ。」


「はっ。」


伊佐が顔を上げ、小夜も目を細める。


「藤次郎様の御意、承りました。」



黒脛巾組が去ると、部屋には俺と喜多、そして大内定綱が残った。


定綱は十文字槍を背負ったまま無言で正座している。


「定綱。」


「はい。」


「お前には相馬家の家臣団調略の最前線を命じる。」


「……はっ。」


「お前が先陣を切ることで、伊達が生ぬるいだけの家ではないことを見せつける。」


定綱の瞳が赤く光った。


「承知。」



その夜、米沢城の二の丸の奥の間で、俺は一人で地図を広げていた。


黒脛巾組の報告と、忍びの間で使われる暗号文が小さな火皿の灯りに照らされている。焚き火の匂いが古畳に染み込み、春の夜の冷気が肩を撫でていた。


「……俺はもう梵天丸じゃない。」


指で地図の線をなぞる。


相馬、磐城、常陸へ――


その未来へと至るルートが、少しずつ繋がっていく。


「だが、まだ“政宗”にもなっていない。」


この六歳の体で、どこまで戦国を駆け上がれるか。どこまで未来を奪い取れるか。


「行くぞ。」


静かに笑った。



奥の襖がそっと開き、喜多が湯気の立つ茶碗を持ってきた。


「冷えます。お身体に障りますよ、藤次郎様。」


その瞳は、やはり笑っていなかった。


「ありがとう、喜多。」


湯気を鼻で吸い込みながら、その温かさが俺の内側へ浸透していく。


「見ていてくれ。」


「はい。」


喜多は座して、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「この伊達家を、俺が変えてみせる。」


「はい。」


「そのために、何人斬ることになっても。」


喜多は目を伏せなかった。


「……お覚悟の上でございますね。」


「もちろんだ。」


その言葉を吐いた瞬間、また一つ幼さを捨てた気がした。



春の夜風が、遠くの狼煙の匂いを運んできた。


(藤次郎の戦いが、始まる。)


米沢城二の丸館で、風の音と火皿の炎が交わる音を聞きながら、俺は戦国乱世の息吹を肺いっぱいに吸い込んだ。

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