『母の怒り、姉の涙』
母上の目の色が変わったのは、その一言の直後だった。
「──目をくり抜いたのは……喜多の弟、ですって?」
口元は微笑んだままだった。
けれど、背筋が凍るような冷気が、部屋全体を包んだ。
「……はい。片倉小十郎景綱。弟でございます」
喜多さんが、畳の上で深く頭を下げる。
いつも落ち着いている彼女の声が、ほんの少しだけ震えていた。
義姫はゆっくりと立ち上がると、すっと喜多の前に歩み寄った。
襖が音もなく閉じられ、空気が密室に変わる。
「あなた、私の息子の、目を──」
ぱしん、と乾いた音が響いた。
喜多の頬に、義姫の平手打ちが飛んだのだ。
驚きより先に、俺の身体が動いていた。
「母上、やめてください!」
義姫の手を思わずつかむ。
その指先が、微かに震えていた。
怒りなのか、悲しみなのか──あるいはその両方か。
「……あの子の顔を、見たか? 梵天丸の……あの綺麗な顔を……!
あんな……あんなふうにして、よくも平気で……っ」
母の目から、また涙がこぼれる。
だがそれは、先日見せた悲しみとは違う。
もっと剥き出しの、動物的な“怒り”だった。
「弟を庇いに来たの? 家臣としては忠義でも……姉としては……!」
「……庇っておりません」
喜多の声は、静かだった。
だが、張り詰めた糸のように、芯の強さを感じさせた。
「私は……姉としてではなく、家臣のひとりとして、あの子の決断を受け止めております」
「決断? 人の目を抉ることが、そんなに尊い“決断”だというの?」
「梵天丸さまのお命を救うための、最後の手段でございました」
そのとき、義姫が喜多の肩を掴み、低く怒鳴った。
「だったらなぜ、あなたの手で止めなかったの!?
あの子の目が潰される瞬間、どこにいたの……!」
──限界だった。
俺は母の手をそっと払い、喜多の前に出た。
「母上、お願いです。もう、それ以上は……」
「梵天丸……」
「俺は、自分の意志で小十郎を許しました。
命を救ってくれたからです。目は……片方なくなりましたけど、まだ左で未来が見えます。
それに、小十郎は俺の“右目”になります。俺がそう頼んだんです」
喜多が顔を上げる。義姫は動かない。
俺は、少し息を整えてから続けた。
「喜多さんは、俺を支えてくれてます。ずっと。
弟さんのことだって、自分を責めて……泣いてました」
それを聞いた義姫の目に、再び濡れた光が浮かんだ。
「……私は、母として……あの子を守ることができなかった。
だから、誰かを責めてないと……自分が崩れそうになるの……」
ぽつりと漏らされたその言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
それは、母としての本音だった。
俺は、そっとその手を取る。
「母上。俺は、ちゃんと生きてます。
小十郎がいなければ、生きてなかった。
だから……その命に免じて、どうか彼を許してください」
義姫は、その場に膝をついた。
そして、喜多の手を取り──かすれた声で言った。
「……許すわけじゃない。でも……ありがとう。
弟さんが、梵天丸を生かしてくれて」
喜多が深く頭を下げた。
母は俺を、ぎゅっと抱きしめた。
その腕の力が、すごくあたたかくて、すごく寂しかった。
戦国時代の“親”って、もっと冷たいもんだと思ってた。
でも今は──この人が、誰よりも“母”なんだって思える。
……これから先、また衝突するかもしれない。
でも今日だけは、母と、家臣と、俺の絆を信じたい。