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『春、血と誓いと』

道は、春の匂いがした。


まだ冷たい風が頬を撫でるが、その中には草と土の匂い、雪解けの水の香りが混じっている。


俺は梵天丸。伊達家嫡男、六歳児。だが今この瞬間、六歳児の瞳でこの景色を見ながら、中身は令和時代に地政学と歴史に明け暮れた高校生の思考が巡っている。


寺での対面を経て――大内定綱が、俺の家臣となった。


(家臣……だと……)


あの瞬間の衝撃は未だに尾を引いていた。強面の三十七歳の男が、六歳の子供に頭を下げて「お前の家臣になる」と宣言するなど、歴史の教科書のどこにも載っていなかった。


だがそれが戦国という時代であり、俺が生きている現実だった。



「梵天丸殿、足元に気をつけられよ。」


先を歩く大内定綱が、振り返りもせずに低く言った。


その背は広く、岩のように重みがあるが、決して押し付けがましいものではなく、背中で語る男の風格があった。


(言葉で屈服させたのではない。あの男は、俺の中に未来を見たからこそ屈したんだ。)


小さな足で歩く俺の速度に合わせて歩調を落とすこともなく、だが俺が転ばぬように周囲に目を配る定綱の姿に、言葉では言えない何かが胸に広がった。


(こいつ……いい奴だな。)


だがその穏やかな時間は、ほんの一瞬で終わった。



「待て。」


定綱が足を止める。


その瞬間、風の向きが変わった気がした。


草むらの向こう、見覚えのない男たちが十数名、槍を構えてこちらを睨んでいる。


(……二本松畠山か。)


武装もバラバラで、統制も取れていないが、その視線だけは鋭い。俺の背後で黒脛巾組の伊佐と小夜が一歩前に出る気配がした。


「何者だ!」


先頭の男が怒鳴る。


「小手森の大内か!?そいつらの小僧は誰だ!?」


槍がこちらに向けられる。


(なるほど、情報を探りにきた物見だな……)


(だが――運が悪かったな。)



「退け。」


定綱が低く言った。


「この方は伊達家嫡男、梵天丸様だ。これ以上踏み込むな。」


「黙れ!」


男が吠えた。槍の穂先が太陽を反射してギラリと光る。


次の瞬間、その穂先が風を切り――俺の目の前に迫った。


(――早い!)


思わず身体が引く。その時。


「ッ……!」


鋭い風切り音と共に、定綱の背が動いた。


「どけ、梵天丸殿!」


声が響く。


同時に、彼が振るったのは見事な十文字槍だった。



「……!」


男の槍が空を切る。その直後、赤い霧が散った。


一歩遅れた音で、男の胴体が崩れる。


定綱の十文字槍が、一瞬のうちに物見の男の胴を貫き、突き抜け、返し、血が飛んだ。


周囲の男たちが悲鳴をあげる。


「ひっ……ひぃい!」


「逃げろ、相手が悪い!」


バラバラと蜘蛛の子を散らすように男たちが逃げていく。


血の匂いが、風に乗った。


その中で、大内定綱はゆっくりと槍を引き、血振るいをし、俺の方を向いた。



「……」


何も言えなかった。


ただ、目の前の光景が胸を締め付ける。


六歳の体に、令和高校生の思考が宿っていても、この戦国の現実の匂いだけは慣れることができなかった。


それでも。


定綱はゆっくりと俺の前に膝をついた。


「梵天丸殿。」


低い声が、本当に低く、俺だけに聞こえるように告げられた。


「これが、私の忠誠でございます。」


「……!」


血の匂いの中で、目の奥が熱くなった。


(やめろ、泣くな俺。)


(戦国の梵天丸なんだろ、泣くな。)


だが、言葉が出ない。



「私は戦でしか生きられない愚物です。」


定綱は笑った。


「だが、その戦を、お前のために使う。これが私にできる唯一の忠誠だ。」


(……この男、本気だ。)



「立て、定綱。」


震えない声で言えたことが、今の俺の唯一の誇りだった。


「立って、これからも俺の未来のために血を流せ。」


「はっ!」


定綱が立ち上がり、その背がまた大きく見えた。


(この男を家臣にしたのは俺だ。この世界の未来を変える一歩だ。)



春風がまた吹く。


血の匂いを薄めるように、梅の花の香りが流れ込む。


「戻るぞ、定綱。」


「御意。」


俺は背を向けて歩き出した。


その後ろで、十文字槍を背に負った大内定綱の足音がついてくる。


(大丈夫だ、俺は一人じゃない。)


(この戦国の世で、生き抜いてみせる。)


春の日差しの中、血に濡れた大地を踏みしめて歩く六歳児の影が、ひどく大きく伸びていた。

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