『心を撃ち抜く春雷』
この寺の本堂は、春の日差しが淡く差し込むだけで、なお重苦しい。
庭先の梅が風に揺れている。さっき落ちた大内定綱の髷は、黒脛巾組の伊佐が無言で拾い、ぽん、と懐に入れて戻っていった。師匠の虎哉宗乙は鍋を抱えたまま正座して目を閉じているが、たまに目を開けて俺と定綱を交互に見ているのがわかる。
(……ここからだ)
さっきまで俺は“ひろゆき論破話術”で定綱を言葉で削り、理で封じ込めてきた。だがそれだけではダメだ。相手は戦場で死地を歩いた武士であり、血と土の重みを知る男だ。
論破だけで屈服するほど、甘くない。
(だから――ここからは“心”を撃つ。)
◇
「定綱殿。」
俺は声を低くし、少し体を前に出す。
「あなたは戦を生きてきた男だ。民を守ることを己の矜持としてきたはずだ。」
定綱が目を伏せる。落ちた髷を隠すように手を添えているのがわかる。
「……民のため?」
「あなたは知っているはずだ。戦で何が一番失われるか。」
「……命だ。」
「違う。」
定綱が顔を上げた。驚きと苛立ちが混じった目をしていた。
「命ではない。“希望”だ。」
「希望……?」
「戦で失われるのは、命より先に希望だ。家族を殺され、家を焼かれた者は、生きながら死ぬ。笑わなくなる。夢を見なくなる。」
声が震えた。小さな体の胸の奥から、熱が溢れてくる。
「あなたはそれを知っているから、戦の道を選び続けてきた。それでしか民を守れなかったからだ。」
「……!」
「でも、今は違う。」
(最新心理学で学んだテクニックを思い出す。相手の生き方を肯定し、共感を示したうえで、そこに新しい選択肢を提示する。)
「定綱殿。今この瞬間、あなたが伊達と手を取り合えば、戦わずして民を守れる。」
「……」
「戦わずして勝つことができる者こそ、本物の強者だ。」
定綱の瞳が揺れる。
(ここだ――今、揺れている心に刺す。)
「あなたは強者だ。だから、ここで刀を取らず、私と共に歩んでほしい。」
「私と共に……?」
定綱が息を飲む音が聞こえた。
◇
「……だが、私は伊達に膝を屈するつもりはない。」
(来るか……)
「私は――」
定綱の視線が俺の目を捕らえる。
「伊達の家臣にはならぬ。」
「……」
「私は――梵天丸殿。」
言葉が震えていた。
「お前の家臣となる。」
(……は?)
思わず変な声が出そうになったのを必死で堪える。
(ちょ、マジかよこの人。)
目の前で、三十七歳の智将が、六歳の子供に対し、その瞳に決意を込めて頭を下げようとしている。
「定綱殿……それは――」
「お前が未来を見据え、民を思い、無駄な血を避ける道を選ぼうとしているのを、見てしまった。」
定綱の瞳から一滴、涙が落ちた。
「俺は、そんな“殿”に仕えたい。」
ズシン――と心の奥に重みが落ちる感覚。
「……定綱殿。」
言葉が続かない。
六歳の幼子としての声が、震えそうになるのを必死で押しとどめる。
(いやいや、これ、泣きそうだろ普通に。)
(ああ……これが戦国の世だ。)
(言葉一つで命を懸けてきた男の心が変わる。戦わずして勝つって、こういうことなんだな。)
◇
「不動明王の加護があろうとなかろうと――」
定綱が膝をつき、額を畳につける。
「俺の心は、貴殿に奪われた。」
(ちょ、おっさん重い……!)
思わず視線を外すと、虎哉宗乙師匠が鍋を抱えて泣いていた。
「良き……良きかなぁ……!!」
(ああもう、この人は……)
障子の陰から覗く黒ギャル二人(伊佐と小夜)が「マジ惚れ落ちじゃんw」「やばくねw」と小声で笑っているのも耳に入る。
(お前ら、後で説教な……)
◇
だが――
定綱の額が畳につく音は、確かにこの寺に響いた。
それは剣を振り下ろす音よりも重く、血の匂いよりも濃く、この戦国乱世において何よりも強い勝利の証だった。
(戦わずして勝つ――これだ。)
「立て、定綱殿。」
震えない声で告げる。
「これよりそなたは、伊達家の梵天丸の家臣だ。」
「は――ははっ!」
定綱が顔を上げ、その頬に残る涙の跡を拭いながら、破顔した。
「望むところだ!」
◇
春の風が本堂の障子を揺らした。
外では、梅の花が散り、花びらが舞う。
その花びらの中で、大内定綱は立ち上がり、俺の目を見据えた。
(これでいい――これで伊達の未来はさらに先へ進む。)
(お前の戦はまだ始まったばかりだぞ、梵天丸。)
春雷が遠くで鳴った気がした。