『湯煙の誓策』
湯治場の湯煙は白く、春の風に揺れていた。
木の香りと硫黄の匂いが混じり合い、遠くで雪解けの水が流れる音が聞こえてくる。湯に浸かると、足の痛みはわずかに引くが、完全に消えることはなかった。
(まだ動けない。)
それが悔しくて仕方なかった。
目を閉じると、黒脛巾組の頭領が報告に来たときの声が蘇る。
『相馬軍、撤退いたしました』
その声に私は心の奥で歓喜しながらも、拳を握り直した。勝った。だがそれは一つの段階に過ぎない。次は、大内だ。
(大内定綱を屈服させる。)
父上の言葉が頭の奥でこだまする。
「大内定綱の腹は読めぬ。だが降れば強力な家臣となる」
その言葉に私は応えねばならない。
湯から上がり、用意された湯浴み着を身にまとい、喜多に肩を支えられながら部屋へ戻る。
「殿……少しお休みくださいませ。」
「休んでいる時間はない。」
「殿……」
喜多の言葉を背に、私は部屋の奥の机に向かう。
膝をつき、筆を握る。
(まだ震えているな)
震える指先を押さえ込み、深く息を吐く。筆を硯に落とし、墨を含ませると、和紙の上へと筆を置いた。
『父上へ』
書き出した瞬間、心が静かになる。
(ここで失敗は許されない。ここで決めねば、未来はない。)
筆を動かすたびに、墨の香りが鼻をくすぐる。遠くで喜多が湯浴み着を整えている音が聞こえた。
『相馬軍を退け、いよいよ大内を屈服させる時と存じます。戦わずして勝つためには、降伏勧告の使者が必要です。私が描いた策通り、田村家と伊達軍で南北より包囲し、逃げ道を断った今が機でございます』
筆を止める。
(誰を使者にするか。)
迷う必要はなかった。
(小十郎しかいない。)
私の策を最も理解し、現場の状況を最も冷静に伝えられる男。そして、若さゆえに大内定綱の警戒を最小限に抑えられる男。
『使者は片倉小十郎に。彼ならば必ず大内定綱殿に誠意をもって言葉を伝えられると信じております』
筆を置き、手を合わせた。
(頼んだぞ、小十郎)
その時だった。
「殿」
障子の向こうから声がした。
「入れ」
扉が静かに開き、そこに立っていたのは片倉小十郎だった。
「殿、足の調子はいかがですか?」
「大丈夫だ。」
「それは何よりにございます」
小十郎が深く頭を下げる。だが、その目は私の目を見ていた。戦場で私が見せる目を知っている小十郎は、私が何を考えているかを感じ取っているのだろう。
「小十郎」
「は」
「お前に頼みがある」
私は和紙を折り畳み、小十郎に差し出した。
「これを父上に届けてほしい。そして、そのまま使者として小手森へ向かえ」
小十郎の目がわずかに見開かれる。
「……私が、ですか?」
「ああ。お前ならば、定綱殿を説得できる」
小十郎がその手を伸ばし、私の手から和紙を受け取る。その指先が震えているのがわかった。
「……恐れ多いことでございます」
「恐れるな。お前を信じている」
小十郎の目が潤んだ。
「は……はっ!」
小さな声で答え、膝をつき頭を下げた。
その姿を見ていると、胸が熱くなる。
(これが、私の戦だ。)
私は立ち上がりかけて足に痛みが走り、息を呑む。すぐに喜多が支えてくれた。
「殿……」
「小十郎、行け。大内定綱に伝えろ。戦わずして降ることこそ、未来のためだと」
「……はっ!」
小十郎が立ち上がると、その目には決意の光が宿っていた。
私は喜多に支えられながら、小十郎の背中を見送った。
湯治場の窓の外で、春の風が白い雲を流している。
その風に、桜の香りが混じった。
(春が来る。この春を勝利の春にする)
足の痛みがずきりと疼く。
(まだ……動けない。しかし――)
その痛みさえも、戦のための糧にする。
私の戦は、ここから始まるのだ。
(了)