『母の涙、包帯の右目に触れながら』
風が、春の匂いを運んでいた。
疱瘡を患ってから、季節が少しだけ進んでいることに気づく。
もうすぐ桜が咲く頃だ。
それでも、俺の身体にはいまだ火照りが残っていて、右目は包帯に包まれたままだった。
「──母上が、お戻りになられます」
喜多がそう告げたとき、俺は少しだけ身を起こした。
母・義姫。
最上義光の妹で、伊達家に嫁いできた女性。
美しく、誇り高く、厳しい……らしい。
俺の記憶では、ほとんど会話すら交わしていなかった。
戦国の母親というのは、情よりも家の義務で動く存在だと勝手に思っていた。
だけど──あの日、俺が高熱でうなされていたときも、彼女はいなかった。
聞けば、実家の最上家で内紛が起き、調停のために山形に帰っていたらしい。
だからこそ、今さらどういう顔をして会えばいいか、分からなかった。
──が。
襖が開いた瞬間、彼女は駆け込むように中に入ってきた。
「梵天丸──!」
その声は、普段の“武家の妻”でも、“大名の母”でもなかった。
ただ一人の“母親”の声だった。
彼女の目が、俺の姿を捉える。
包帯を巻いた右目。
赤みがまだ残る頬と、痘痕がわずかに浮かぶ皮膚。
少し痩せた身体。
そのすべてを見た瞬間──義姫の目から、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「……そんな、そんな……! こんな、顔に……」
彼女は、膝をついた。
そして震える手で、俺の頬に触れようとして──止めた。
「……ごめんね、梵天丸。
母がいない間に、こんな目に……こんな身体に……!」
かつてどんなに気位が高く、凛としていた女でも、
今この場にいるのは、ただの“ひとりの母”だった。
俺は、苦笑しながら答えた。
「……もう大丈夫です。
右目は……見えませんけど、左目はちゃんと見えてます」
「そんなこと……言わないで……!」
その言葉が、刺さった。
冗談めかして返したつもりだったのに、母の涙は止まらなかった。
「あなたの目は、あんなに綺麗だったのに……
おまえは、笑うと、右の瞳がふっと細くなる癖があって……
あの目が、もう見られないなんて……!」
母は俺の顔を両手で包み込み、
まるで割れてしまいそうな器を抱くように、俺をそっと引き寄せた。
「梵天丸……ごめんなさい。
母は、母でいられなかった……あのとき、そばにいなかった……!」
こんなに泣く人だったんだ。
こんなに、俺のことを思ってくれていたんだ。
その事実が、右目の喪失よりも、
なぜか胸にじんわりと沁みた。
俺はそっと、母の袖に顔を埋めた。
疱瘡の痕も、包帯の重さも、今は何も怖くなかった。
「……母上。俺、生きてます。
失ったものもあるけど……守れたものもあるんだと思います」
母の涙が、俺の包帯に落ちた。
そのしずくは、火照った頬に冷たくて、少しだけ気持ちよかった。
「この目は、戦の傷じゃありません。
生き延びた証です」
母は、顔を上げた。
泣き腫らしたその目は、でも──今まで見たどの女の目よりも、強かった。
「……梵天丸。
あなたは、伊達の嫡男。
でもその前に……私の、大切な子です」
この言葉は、きっと一生忘れない。
母という存在が、こんなにも深くて、重くて、あたたかいものだと、
俺はこのとき初めて知った。