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『湯煙に届く影の声』

湯の中で、足の痛みがじわじわとほどけていく。


雪がすっかり溶け、山の木々がまだらな緑を覗かせる頃。湯治場の湯気が白く立ち上り、硫黄と木の香りが混じるこの小さな世界に、外の戦の気配は一切なかった。


(……戦は動いている。)


痛む足を湯の中でさすりながら、私は閉じた目の奥で霧立つ山道を思い描いていた。


相馬が動くと知ったあの朝から、ずっと気が気ではなかった。地図を描き、黒脛巾組に指示を出した私が、こうして湯に浸かっている間に戦が始まり、終わるのかもしれないという現実。


(悔しい……。)


自分の小さな身体が憎らしかった。落馬した時、もっと踏ん張れたら、もっと上手く動けたら――そうすれば今、私も外で春の風を浴びて立っていられたはずだ。


「殿。」


声がして、私は目を開けた。


喜多が湯煙の向こうに立っていた。湯気の中で揺れる髪と、凛としたその瞳が私を見つめている。


「湯から上がってください。湯あたりなさいます。」


「まだだ。」


「殿。」


その声に叱責の色が混じるのを感じて、私は小さく息を吐いた。


「……わかった。」


湯から上がると、冷たい空気が肌にまとわりつく。喜多が用意した湯浴み着を身にまとい、脱衣所で身体を拭くと、ほんの少しだけ軽くなった足が地面を踏んだ。


「戦の知らせは?」


「それは……。」


喜多が言い淀んだ。その瞳の奥で、湯気に溶けきらない緊張が微かに震えていた。


「言え。」


「はい。黒脛巾組の者が戻りました。今、外で控えております。」


私は心臓が早鐘を打つのを感じた。


「呼べ。」


喜多が頭を下げて障子を開けると、春の冷気が一筋流れ込んだ。


影が滑り込むように現れた。黒装束の男、黒脛巾組の頭領だった。夜の空気を纏ったその姿が、湯治場の静寂を切り裂いた。


「殿。」


頭領は膝をつき、頭を垂れた。


「報せろ。」


私は声を抑え、震えないよう努めた。


「相馬軍、撤退いたしました。」


心臓が跳ねた。


「……詳細を。」


「はい。相馬の兵三百余、南西街道を進軍。霧深い山道にて伏兵を設置、『静矢』による三度の一斉射により先鋒を潰し、混乱を誘発。混乱の中で更なる狙撃を加え、本隊の進軍速度を低下させ、隊列を乱すことに成功。」


淡々とした報告の中で、私の手が無意識に拳を握る。


「相馬方は撤退の声を上げ、現在は領地へ戻りつつあるとのことです。」


湯気が揺れる中、私の呼吸が浅くなる。


「……死者は?」


「黒脛巾組に負傷者二名、死者はおりません。」


「相馬は?」


「二十余名が討ち取られ、混乱の中での落馬などによる死傷が確認されています。」


湯治場の窓の外で鳥が啼いた。春の風がまた一筋吹き込む。


私の胸の奥がじんわりと熱くなった。


(勝った……。)


戦わずして勝つ。無駄な血を流さず、敵を退ける。それが叶ったのだ。


「殿……?」


喜多の声が聞こえた。


私は拳を解き、頭領を見つめた。


「よくやった。」


その言葉を口にした時、頭領が顔を上げた。その目に一瞬だけ宿った光が見えた気がした。


「全ては殿の御策によるもの。」


「違う。お前たちが成した戦果だ。」


私はそのまま深く息を吸った。


「お前たちの働きが、伊達の未来を繋いだ。」


私の声が震えそうになったのを、湯気が隠してくれた。


「次の命を待て。」


「はっ。」


頭領が深く頭を下げ、静かに退いていった。


残った湯気の中、私は目を閉じた。


(次は……大内だ。)


勝った。しかし戦は終わらない。いや、これからが始まりだ。


私は拳を握り直した。


「殿……。」


喜多が近づき、その手が私の肩に触れた。


「もう少し、湯治を続けましょう。次の戦のために。」


「わかっている。」


心の奥で炎が灯るのを感じながら、私は頷いた。


春の風が、戦の匂いを運んでいた。


(了)

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