『夜風に鳴る弦の声』
夜の山は息を潜めていた。
風が止むと、自分の鼓動の音が大地に響いているのではないかと錯覚するほどの静けさが広がる。月が雲間から覗き、白く冷たい光を霧立つ山道に落としている。
私は黒脛巾組の頭領。この闇を生き、この闇で死ぬ。生きるとは、殺し、生かし、護ることだ。
そして今宵、護るべきもののために矢を放つ。
霧の奥から、馬の吐息が聞こえる。馬蹄が湿った土を踏む音が小さく近づいてくる。相馬の旗が見えたのは、月光が射した一瞬だった。数百の兵が静かに進軍している。油断なく、それでいて戦の匂いを纏っていた。
私の隣で「静矢」を握る仲間たちの呼吸が整うのを感じる。
この竹と鉄で作られた連弩は、伊達家の幼き主が考案したものだ。
六歳の、幼子の。
だがその頭脳は、この国の誰よりも冴えていた。相馬が援軍を出すと読み、道を読み、霧を読み、そして私たち影の者たちに告げた。
『撃退せよ。戦わずして勝て。血を最小限に、未来を最大限に。』
私の中で、あの子の声がこだまする。
指を上げる。月光が手の甲に落ちた。
闇に散った黒脛巾組の者たちが、一斉に構えを取ったのを気配で感じる。
「撃て。」
弦が鳴った。
音は小さかった。ただ張った弦が振動する音だけが夜の空気を震わせ、竹矢が放たれた。
矢は音を立てずに霧を切り裂き、先頭の相馬兵たちに吸い込まれるように突き刺さった。
一人、また一人。
「っ!」「うわっ!」
悲鳴が夜気を破る。馬が嘶き、混乱の渦が霧の中で生まれた。
「二射目。」
私は指を弾いた。
また弦が鳴る。次の矢が放たれ、さらに兵が倒れる。
「三射目。」
再び弦が鳴る。
混乱が広がる。先頭が倒れ、後方が止まり、押し寄せていた行軍の流れが霧の中でせき止められた。
「敵襲だ!」「どこだ!?」
叫び声が霧の中で錯綜する。兵が左右に散ろうとするが、闇の中に姿は見えない。黒装束の私たちは影となり、再び弦を引き絞る。
夜の霧の中、竹矢は月光すら弾き、無音の死を運ぶ。
「撤退だ!退け!」
その声が聞こえた瞬間、私は手を下ろした。
それが合図だった。
弦の音が止む。息を詰め、気配を消す。霧が再び静けさを取り戻す。相馬の兵たちが、霧の奥で馬を返し、撤退を始めていた。
(勝った。)
だが私の中で勝利の喜びはなかった。ただ冷たい風が頬を撫でるだけだった。
この闇の中で死んだ相馬の兵たちの血の匂いが、霧と共に漂ってくる。
「……戻るぞ。」
私は小さく告げると、仲間たちが気配で従った。
戦場から離れた先、山の中腹で月を見上げる。
血に濡れた竹矢が、月の光に濡れていた。
私は懐から和紙を取り出した。幼き主君が描いた地図だ。
『ここで撃退する。そうすれば、相馬は動かなくなる。無駄な血は流れぬ。』
あの子の言葉が風に混じって聞こえる気がした。
「お前の言う通りだ。」
私の声は夜風に消えた。
霧の中、相馬の兵たちが完全に領地へ撤退していくのを確認すると、私は静かにその場を後にした。
この影の働きは、誰の記憶にも残らない。だが、未来を繋ぐために必要な闇の働きだ。
それが私の誇りだった。
(了)