『闇に弦鳴る』
雪が溶け、春の匂いが湿った土から立ち上る。
その匂いが、血の匂いと混じり合うのは、戦の前触れだった。
私は黒脛巾組の頭領。名前など、この世の誰も覚えなくて良い。影の者に名など不要だ。ただ――この闇に身を置くことだけが我らの生きる証だ。
相馬が動くと報せが来たのは、朝霧が山を漂う刻だった。
三百ばかりの兵が南西の街道を進む。目指す先は大内領、小手森城。その道を抜ければ田村家、伊達家の包囲は緩むと踏んでいるのだろう。
だが――
「踏ませるか。」
私は呟いた。
霧の中に潜む我らの影が微かに揺れる。黒装束をまとい、土と血と雪の匂いを馴染ませた者たちが、地面すらも気取らせぬよう身を伏せる。
音は風の音だけだ。鳥も鳴かぬ。霧が枝葉に絡みつき、水滴を落とす音だけが耳に残る。
目を閉じる。闇の奥で、幼き主君の声が蘇る。
『静矢で撃退せよ。』
六歳の声だった。しかし、その声に宿る覚悟は、私が生涯で見てきたどの武将よりも鋭かった。
あの子が作った「静矢」――竹と鉄を合わせて作られた、静かに弦が鳴るだけの連射式の小弩。
私の手の中でその「静矢」が冷たく震え、呼吸を合わせるように脈打つ。
「来る。」
霧の向こうで馬の嘶きが聞こえる。相馬の先鋒が霧の中を抜けようとしている。
数は二十。斥候か。
私は指を二度弾いた。周囲の影が微かに揺れた。
「……放て。」
風が止んだ。
そして、弦が鳴った。
静かだった。刃が空気を裂く音もしない。弦が震える音だけが耳に残り、次の瞬間、矢が霧を裂いていった。
前を行く相馬の兵が声もなく倒れる。首筋、額、喉元に正確に突き刺さった竹矢が小さな呻きを残して止まる。
「一撃目、確認。」
仲間が小声で告げる。
「二撃目、準備。」
私は再び指を弾いた。
霧が揺れる。霧の奥で相馬の兵が声を上げる前に、また弦が鳴った。
二撃目の矢が霧を切り裂き、さらに五人が崩れ落ちる。
驚きと恐怖が霧の中で走り、残った相馬の斥候が慌てて馬を返そうとした。
「逃がすな。」
私は小さく呟いた。
三撃目の弦が鳴った。
霧の奥で、馬の悲鳴と男の悲鳴が交錯する。音が止むと、そこには血の匂いだけが残っていた。
私はゆっくりと立ち上がる。
「進軍を遅らせろ。」
視線を送ると、影がすぐに散っていく。山道沿いに細かく配置した仲間が、相馬軍本隊の進軍を遅らせるため、更なる奇襲の準備へ向かう。
私は一歩進み、倒れた相馬の兵の顔を見下ろした。若い兵だった。まだ髭も生え揃わぬ少年の顔が、血で汚れている。
私は目を閉じた。
「すまぬ。」
戦は残酷だ。だが、あの幼き主君が描く未来のためなら、私はこの手を汚すことを厭わない。
(伊達の未来のためだ。)
風が吹き、霧がわずかに晴れた。
街道の奥、霧の向こうに相馬の旗が見える。無数の兵が霧の中を押し分けて進んでくるのがわかった。
私は腰の静矢を握り直した。
「次は本隊だ。」
私の中で恐怖が消えた。ただ冷たい風だけが、血と鉄の匂いを運んできた。
「かかって来い。」
(了)