『春の風、息子の地図を持って』
雪が溶けた大地の匂いは、血の匂いが混じる春の匂いだ。
私の足元で泥が割れる音を立て、白く濁った水が跳ねる。まだ凍てついた風が頬をかすめていくが、陽光は確かに春を告げていた。
私は鞍の上で、その冷たさを深く吸い込みながら遠くの山を見た。
(春が来る。この春、伊達はまた一歩進む。)
背中の袋から、一枚の地図を取り出す。小さな指が描いた線は、子供が遊びで引いた線ではなかった。道の曲がり、谷の深さ、湿地の位置、すべてが実際の地形と寸分違わぬ精密さで描かれていた。
「殿。」
横で馬を引く鬼庭左月が口を開く。年季の入った顔が、春の日差しを浴びてわずかに赤くなっていた。
「大内の動きは、読めておりますかな。」
「……読めているとも。」
私は地図を見つめた。そこには梵天丸が描いた未来が刻まれている。息子が描いたこの地図が、この戦の鍵を握っていた。
「殿。」
遠藤基信が馬を寄せてくる。その目はいつもの穏やかさをたたえながら、微かに険しさを滲ませていた。
「田村家の兵が三春の街道を越え、大内領の南に布陣を完了との報せ、先ほど届きました。」
「そうか。」
遠く、大内領の山の端に煙が見える。炊き出しの煙だろう。春の風が揺らし、その煙が細く流れていく。
「南が塞がったな。」
「はい。」
私がそう言うと、後方で控えていた伊達実元が馬を引きながら笑った。
「兄上の御子息、流石でござるな。」
「何がだ。」
「この布陣、まるで小手森を手の中に転がすような策。あの年でここまで策を描けるとは。」
「……。」
私は何も言わず、地図を握りしめた。六歳の子供が、夜中に燈を灯して描いたその地図。その時、あの子の瞳には何が映っていたのだろう。
「殿。」
左月が再び口を開いた。
「使者を出す頃合いにござろう。」
私は頷き、地図を閉じて懐に戻す。
「大内定綱に伝えよ。戦わずに城を守る道があるとな。」
「かしこまりました。」
左月が馬首を返し、伝令へと駆けていった。
私は手綱を握りしめ、遠くを見つめた。日が昇り切らぬ朝の風が、冷たくも心地よかった。
「殿。」
基信が声をかけてくる。
「相馬の動きがあったとの報せが。」
「来たか……。」
私は息を吐く。冷たい風が唇を乾かした。
「どこからだ。」
「南西の街道、三百ばかりの兵で進軍中とのこと。」
私は目を閉じた。地図の中の細い線が浮かぶ。あの子が言った通りだ。
(相馬が動く。)
その言葉を思い出す。
あの子の瞳に宿る光。六歳の幼子のそれではなく、戦場を知る者の目だった。血の匂いを知り、民の重さを知り、伊達を未来へ繋ぐ覚悟を持つ光だった。
「基信。」
「は。」
「伏兵は配置してあるか。」
「はい、黒脛巾組の者が既に配置を完了しております。」
「よし。」
私は天を仰いだ。雲が早く流れていた。春の嵐が来る前の空だ。
「勝つぞ。」
「はい。」
「勝って、この春を伊達の春とする。」
私の声が風に消えた。
だがその風は、血と鉄の匂いを混じえていた。
戦が始まる。
あの子が描いた未来を、この手で現実に変える時が来たのだ。
(了)