『湯煙に沈む焦燥』
雪解けの水が屋根から落ちる音が続いていた。
その音を聞くたびに、私の胸は痛んだ。いや、痛むのは胸だけではない。落馬した時に打った足が、まだ歩くたびに重く、痺れるような痛みを訴える。
「……大丈夫だと言っているのに。」
呟いても、誰も聞いてはくれなかった。
米沢城の奥、静かに湯気を立てる湯治場へと向かう道すがら、私は悔しさを噛みしめていた。まだ春には遠い冷たい風が、湯治場へ向かう私の小さな体を容赦なく冷やしていく。
父上が命じたのだ。戦が近い今、私は戦の最中に倒れるわけにはいかないと。
「湯治など、必要ない。」
小声で吐き捨てるように言うと、隣で歩いていた喜多がこちらを見て目を細めた。
「殿?」
「……なんでもない。」
喜多は何も言わず、ただ私の歩調に合わせて歩いた。顔は笑っていたが、その瞳は決して笑っていなかった。
「無理はなさらないでくださいませ、殿。」
「無理などしていない。」
言い返すと、喜多の目が細くなる。その目は、幼子を諫める姉の目だ。
(ああ、またか。)
私は口を閉じ、前を見た。前を見なければ、言葉で負けてしまう。
湯治場に着くと、薄暗い湯気の中、木の香りが鼻を打った。岩に湯の流れる音、湯船に落ちる雫の音が静かに響いている。私は浴衣に着替えさせられ、湯船の縁に座らされていた。
「入らないのですか?」
小夜が湯気の向こうで私を見て笑っている。
「……少し、待て。」
湯に入ると、足が痛むのだ。傷を熱が刺すあの感覚を思うと、少しだけ怖くなる。
「殿、また怖がってます?」
伊佐が茶化すように声をかけてくる。
「うるさい。」
答えながらも、小夜と伊佐の笑い声が混じり合うのを聞いて、少しだけ気が楽になった。
湯に入ると、熱が体を包み、痛む足を焼くような感覚が走った。唇を噛んで耐えると、痛みがじわりと引き、湯の温かさが代わりに満ちてきた。
「……戦の時が近い。」
思わず、口に出ていた。
「殿?」
小夜が振り向く。
「戦が近いというのに、湯治など……。」
「身体を壊しては、戦どころではありません。」
「そうだそうだ。」
伊佐が笑いながら湯に浸かり、肩まで沈んだ。喜多は湯の縁で私を見ていた。
「殿は大切なお方ですから。」
「わかっている。」
「わかっていないから、落馬したのです。」
喜多の言葉に、私は息を飲んだ。
「……仕方がないだろう。」
「仕方なくありません。」
喜多の瞳が潤む。私の心臓が痛んだ。熱のせいで苦しくなったのではない、別の痛みだった。
その夜、湯治場の部屋で布団に横たわると、黒脛巾組の影が障子の向こうに現れた。
「殿。」
「報告か。」
伊佐と小夜が、障子を開けて中に入る。二人の背後に湯治場の冷たい夜気が入り込み、部屋の熱を奪った。
「田村家が動きました。伊達軍と連携し、大内定綱の領地を南北から挟むように布陣しています。」
私は体を起こした。痛む足に重心をかけると、強い痛みが走るが、それでも姿勢を正す。
「相馬の動きは?」
「相馬家はまだ動きを見せていませんが、偵察の動きは活発化しています。」
伊佐が報告を続ける。
「黒脛巾組は、周辺の道に伏兵を配置し、相馬が動いた際には即座に伝令できるよう備えております。」
「そうか……。」
胸の奥が熱くなる。
(行きたい。)
私の策が動き出している。その戦場を、この目で見たい。勝つために、伊達の未来のために、私が見届けねばならない。
「殿?」
小夜が私の顔を覗き込んでいる。
「陣を見に行く。」
「だめです。」
喜多の声が、鋭く響いた。
「お前には聞いていない。」
「聞きなさい。」
私の視線が喜多と交わる。湯治場の灯りが揺れる中、私たちは見つめ合った。
「私は、行く。」
「行かせません。」
「喜多。」
「いいえ。」
喜多は一歩近づき、私の目線の高さにしゃがんだ。姉の目だった。
「治るまで、何があっても行かせません。」
言葉が続かない。痛む足が震え、私の視界が滲む。
「戦に出るには、まずご自身の体を直すことです。」
「……わかっている。」
震える声でそれだけ言うと、喜多が小さく笑った。
「お利口さんです。」
悔しさで唇を噛んだ。
(次こそは、見に行く。)
湯治場の外で、春を告げる風が吹いた。血の匂いの混じった春の風が、私を呼んでいた。
(了)