『春の痛み、姉の叱責』
雪解けの匂いがした。
馬の吐息が白く、冷えた空気の中で湯気のように揺れ消えていく。私の両脚は馬の腹のあたりに回されていたが、緊張で爪先が冷たくなっているのがわかった。
(戦が近い。)
米沢城の裏手で、私は片倉小十郎と鬼庭左衛門に乗馬を教わっていた。
「殿、馬の耳と首筋を見ながら手綱を合わせてくだされ。」
左衛門の声は落ち着いているが、その目は私の動きを見逃さない。
「殿、蹴らなくてよろしゅうございます、そっと……そっとで……」
小十郎が笑いながら言うが、私が馬の腹を軽く蹴ると馬の耳がぴくりと動いた。
「行くぞ。」
「殿、待っ……!」
その声は風に切られ、馬が雪解けの地面を蹴った。水が混じる泥が跳ね、冷たさが頬を叩いた。
「ぅ……!」
身体がぐらつく。揺れる視界の中で、私はなんとか体勢を保とうと必死だった。
(戦に出るのだ。馬に乗れずして何が主だ!)
心の中で自分を叱咤するが、馬の首筋が揺れるたびに視界が揺れ、恐怖が腹の奥から這い上がる。
その時、雪解けの泥が大きく割れる音がして、馬の脚が取られた。
「殿!」
「梵天丸様!」
二人の声が重なった瞬間、私は空を見ていた。
世界が横に転がる。
空が白く、冷たい。
「っ……!」
地面に叩きつけられた。
腰に重い衝撃が走り、次に右足に鋭い痛みが走った。頭の奥で鈍い音が響き、視界がにじむ。
(立たねば……立て……)
体を起こそうとするが、足が痛みで力が入らない。
「殿!」
小十郎が駆け寄り、私を抱き起こそうとした。
「触るな……!」
「無理です、動かないでくだされ!」
次の瞬間、鋭い声が吹雪のように割り込んだ。
「なにをしているのですか、二人とも!」
喜多だった。
私の侍女であり、小十郎と左衛門の姉である喜多が、肩を揺らしながら駆け寄ってきた。白い息を吐き、頬を赤くしていた。
「姉上……これは……」
「言い訳は聞きません!」
喜多は泥で汚れた裾も構わず私の隣に膝をつき、私の顔を覗き込む。
「殿、大丈夫ですか?」
その目は怒っているのに、どこか涙で濡れているように見えた。
「だ、大丈夫だ……。」
言った瞬間、足に痛みが走り、息が詰まった。
「大丈夫なわけないでしょうが!」
喜多は私を抱き寄せた。母の匂いのような、暖かい香りが鼻をくすぐる。
「子供を何だと思っているのですか……!」
「俺は……子供でいるつもりは……!」
「殿はまだ六歳です!」
怒鳴られた声が胸に響いた。喜多の手が震えているのがわかった。
「喜多……俺は……」
その時、私の視界の端で、小十郎と左衛門が顔を伏せていた。二人とも悔しそうに唇を噛んでいた。
「姉上……俺が……」
「黙りなさい!」
喜多の声が震えていた。私の頬にぽたりと涙が落ちる。
「戦に出るために、怪我をしてどうするのですか!」
「戦に出るためだ……!」
「子供が戦に出る世の中の方がおかしいのです!」
「おかしくても、俺は……!」
息が詰まり、声が途切れた。涙が出そうになり、奥歯を噛みしめる。
「殿……お願いですから、休んでください。」
喜多が抱きしめる腕に力を込めた。冷え切った体がその温かさで少しずつ溶けていく。
「……少しだけ……だ。」
やっとそれだけ言うと、全身から力が抜けた。
春風の気配が、遠くで揺れていた。
(了)