『雪の溶ける音と影の息遣い』
雪が溶ける音を、聞いた気がした。
まだ冷たい空気が鼻腔を刺す米沢城の朝。障子の隙間から差し込む薄い光が、畳の上に静かに影を描いていた。その影の中で私は地図を広げ、筆を持ち、目を細めていた。
宮城南部から福島北部、相馬から磐城、常陸へ抜ける道を記した地図だ。筆先が細かく揺れるたび、線が呼吸をするように震え、その線が道となり、谷となり、戦場となる。
「ここか……。」
細い指で一点を押さえた。まだ子供の小さな指が、そこに無数の兵が動き、矢が飛び交い、血と泥が交じる未来をなぞっていた。
「おはようございます、殿〜!」
唐突な声に振り向くと、伊佐が元気よく襖を開けて入ってきた。その後ろで小夜が少し眠たそうな目を擦りながら入ってくる。二人とも黒装束の上に羽織った薄い羽織が雪で湿っていた。
「朝から地図? 本当、好きですねえ、殿は。」
「当然だ。」
「今日の殿は冷たいっすねー!」
伊佐が私の後ろに回り込み、背伸びをして地図を覗き込む。小夜も隣に座り込み、机の端に頬を乗せて私を見上げてきた。
「ここに相馬が兵を送ってきたら?」
「潰す。」
「即答!」
伊佐が吹き出し、小夜が小さく笑った。
「笑うな。」
「はいはい。」
二人がふざけているようで、その目は笑っていなかった。緊張感を隠すように笑いながらも、私が指差した場所を真剣に見ている。
「砦の補強は?」
「進んでますよー。あ、でも昨日、伊佐が雪で滑って尻もちついてました。」
「小夜、お前余計なことを……!」
伊佐が顔を赤らめ、私に目を逸らした。
「気をつけろ。」
「……はい。」
小夜が笑いを堪えながら、私に向かって小さく頭を下げる。
雪はまだ深く、溶けきらない冬の名残が残っている。それでも陽の光は確実に強さを増し、昼間は氷を溶かし、夜になればまた凍りつかせる。春と冬の綱引きの中で、私たちは戦の準備を進めていた。
「黒脛巾組の配置は?」
「二十名を湿地の奥へ、更に十名を道沿いに張り付けています。」
「田村家は?」
「殿の策通りに動き出しています。雪が溶ける頃には軍を出せるよう準備を進めていると。」
伊佐の声に私は頷き、筆を置いて地図の上に両手をついた。手の平に冷たい和紙の感触が伝わり、それが私の中で小さな炎をさらに強くした。
「……伊達は勝つ。」
その声に伊佐も小夜も頷く。
「殿、私たち、絶対負けませんから。」
小夜の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。小さな身体でありながら、私はその瞳を受け止め、視線を逸らさなかった。
「勝つのは俺ではない。伊達が勝つ。」
「はい。」
雪解けの匂いが鼻をかすめる。
外で雪が崩れ落ちる音がして、障子が微かに揺れた。
「小夜。」
「はい?」
「外の雪の様子を見てこい。」
「えー、寒いのにー。」
「嫌ならいい。」
「行きます行きます、行けばいいんでしょ!」
文句を言いながら立ち上がった小夜が、私の横を通るときに髪から水滴を落とし、それが私の頬に当たった。
「冷たい。」
「……すみません。」
小夜が照れ笑いをして飛び出していく。
「小夜は相変わらずですね。」
伊佐が笑いながら小さく溜息をついた。
「お前も行け。」
「え? 俺もですか?」
「監視だ。」
「ええー……小夜を監視するためですか?」
「当たり前だ。」
「えええー……」
渋々立ち上がった伊佐が、小夜の後を追って障子の向こうへ消えていった。
私は笑みを浮かべながら、再び地図に視線を落とす。
ここからが始まりだ。
戦はすでに始まっている。
雪解けが、戦の合図だ。
雪が溶けるとき、血が流れる。
それを避けるために、血を流す。
戦とはそういうものだ。
小さな私の手が、再び筆を取る。
大内定綱への使者の準備も整った。
黒脛巾組の動きも整った。
田村家も動き出している。
相馬の動きも読んでいる。
あとは春を待つだけだ。
「もうすぐだ。」
私はそう呟き、冷たい風が流れ込む障子の隙間を指で閉じた。
春の風はまだ冷たかったが、確実に近づいていた。
(了)