『大内定綱調略準備・使者派遣』
雪が溶ける音が、確かに聞こえる気がした。
まだ冷たい風が頬を刺す夜明け前の空気の中、米沢城の廊下を歩く私の吐息が白く揺れ、すぐに消えていく。小さな身体でありながら、背筋だけは真っ直ぐ伸ばしていた。なぜなら今日は、重要な日だったからだ。
「殿。」
廊下の端で、黒装束の影が頭を下げる。伊佐だ。その後ろから小夜も顔を出し、眠気が残った目を瞬かせていた。二人とも雪を被ってきたのか、肩や頭に白い粉がまだ残っている。
「戻ったか。」
「は。」
伊佐は声を低くし、手を差し出した。そこには一通の巻物があった。私はそれを受け取り、歩みを止めずに廊下の窓から雪が積もる庭を見やる。
雪解けの匂いが、確かにあった。
「田村家は動く。」
私が告げると、伊佐の目が一瞬だけ見開かれた。
「……早いですな。」
「田村家に動いてもらわねば困る。三春の動きは、大内定綱への圧になる。」
巻物を開く。小さな私の指がその上を滑ると、黒脛巾組の文字が列を成し、そこに書かれた情報が目に焼き付いていく。
田村家の兵動員数、大内家と相馬家の交易経路、春を告げる街道の雪解け具合、村々の噂、米の備蓄量……どれもこれも、私にとっては勝つための駒の位置だった。
「……姫は?」
小夜が口を開いた。声が少し震えていたのは寒さのせいか、それとも別の感情のせいか。
「父上は養女の仕度を進めている。大内定綱が伊達家に膝を屈するとき、迎える姫がいることは最大の保証となる。」
「殿……本当に嫁がせるのですか?」
小夜の声にわずかな棘があった。その棘は、幼い私に向けられたものではなく、この国の理不尽な現実に対するものだった。
「これが戦だ。」
私はそれだけを言った。六歳の子供の口から出るには重すぎる言葉だったかもしれない。でも言わなければならなかった。
小夜は目を伏せ、そして小さく頷いた。伊佐が視線を私に戻す。
「使者を送りますか。」
「送る。黒脛巾組より最適な者を選べ。」
「は。」
伊佐は短く答え、背後で目配せをすると、さらに二人の忍びが音もなく現れた。闇に溶けるように動くその影を見て、私は唇を引き結んだ。
「伝えろ。大内定綱に告げるのだ。伊達家に臣従するならば、兵は動かさぬ。戦わずに城を守り、領民を守る道があることを。」
「承知。」
その瞬間、障子の外で雪が崩れ落ちる音が響き、静寂が戻った。
だが私は知っていた。
この静寂は、嵐の前の静寂だということを。
*
その夜。
私は机に向かい、再び地図を広げていた。燭台の灯がゆらゆらと揺れ、影が部屋の壁に伸び縮みしている。私の小さな手が筆を握り、宮城南部から福島北部、相馬、磐城、常陸への線を引いていく。
「……ここが要だ。」
田村家の動き、大内定綱の動き、相馬の揺れ、すべてがここに収束する。
「ここで勝てば、道が開ける。」
「何をぶつぶつ言ってるんですか、殿。」
小夜が背後から声をかけてきた。振り返ると、湯上がりのように頬を赤くした小夜が頭を傾けてこちらを見ている。その後ろで伊佐が「小夜、殿の集中を邪魔するな」と小声で言ったのが聞こえた。
「うるさいな伊佐、殿はこんな夜中に地図を見て楽しいんですか?」
「……楽しい。」
私が言うと、小夜がぽかんと口を開け、そして笑い出した。
「殿、やっぱり変わってますよ。」
「知っている。」
私が言うと、小夜は笑いながら私の横に座り、地図を覗き込んだ。その目は真剣だった。
「ここが……大事な場所なんですね。」
「そうだ。」
「ここで勝ったら……殿は褒めてくれますか?」
私が眉を寄せると、小夜は笑った。
「なんでもないです。」
*
夜明けが近づいてきた。
私は窓を開け、外の冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。雪の匂いが肺を満たし、心臓が高鳴る。
「春が来る。」
その言葉を呟いたとき、背後で伊佐と小夜が深く頭を下げた。
「殿、この戦、勝たせてみせます。」
「……ああ。」
小さな私の声が、まだ寒い空気を震わせた。
戦はもう始まっている。
私は六歳の身でありながら、その中心に立っているのだ。
(了)