『影が築く砦──忍びの報告、春の風』
雪の中に、春の匂いが混じっていた。
どこか遠くで鳥の声がする。まだ冷たい空気の中に、柔らかな湿り気が感じられるのは、凍った大地の下で水が動き始めている証拠だ。
私は障子を少し開き、冷気を一口吸った。吐き出すと白い煙になり、すぐにかき消えた。
「……来るか。」
口に出した瞬間、その気配が現れた。
「殿。」
黒脛巾組の頭目代理の伊佐が、するりと障子の隙間から滑り込むように入ってきた。その後ろから小夜がついてくる。二人とも雪を払った黒装束を着て、湿気を帯びた冬の匂いを運んできた。
「帰ったか。」
私が言うと、伊佐は黙って頷き、懐から巻物を取り出した。小夜はその隣で私をじっと見つめながら、唇の端をわずかに上げる。
「殿、例の場所、調べて参りました。」
私は立ち上がり、蝋燭を灯す机の前に座った。伊佐が巻物を開くと、そこには私が描いた地図に新たに赤と青で細かく線が引き加えられていた。
「……詳しく話せ。」
私が促すと、伊佐は巻物の上に指を走らせる。
「ここ、湿地帯ですが、川幅は殿が思われたより狭うございました。ただし、水深は深く、足を取られるのは間違いありませぬ。」
指が線をなぞる。
「ここは獣道で、道幅は二人が並んで通れるほどですが、脇の崖は崩れやすく、弓矢の射線を取りやすい。」
伊佐の顔がほんのわずかに緩む。
「……殿の御指示通り、伏兵には最高の地でございます。」
小夜が声を挟んだ。
「木の種類、根張り、落葉の量、風の通り、全部調べました。焚火は厳禁ですが、地下に炭を埋めて保温し、匂いを外に漏らさぬ方法を用意しています。」
私は深く頷いた。六歳の小さな手で、机の端を掴む。
「砦は?」
「砦も……作りました。」
伊佐が笑った。珍しく、少年のような笑みだった。
「笑うな。」
「はっ、失礼を。」
伊佐が笑いを引き締めるが、目の奥でまだ笑っているのが分かる。
「それで?」
「木の幹を組んで塀を立てました。泥と藁で土塁を築き、高くしすぎず、外から見えぬように杉の枝を被せて隠しています。見張りは木の穴に忍び込み、交代で監視を続けます。」
私の胸が高鳴った。
「よくやった。」
伊佐と小夜が顔を見合わせ、そして揃って私に向かって深く頭を下げた。その瞬間、私は『主』であることを思い出させられる。六歳の身体は小さくとも、私が彼らを動かす『主』なのだ。
「物資は?」
「矢は静矢改良型を八十本、さらに予備で百二十本用意。ボウガンは十丁が常備され、さらに予備で五丁を隠してあります。」
「糧秣は?」
「乾飯、塩、干し肉を三十人で十日分。」
「相馬の動きは?」
小夜が目を伏せ、声を落とした。
「……動きは鈍いです。ただし、相馬家家臣の酒井某が大内定綱の動向を探っており、近く動く気配があります。」
私は机を叩き、息を吐いた。冷たい空気が肺を満たし、その熱で指先が暖まっていく。
「油断はできぬ。」
「はい。」
伊佐と小夜の声が重なった。
そのときだった。障子の外から雪の塊が落ちる音が響き、バサリと小夜の頭に雪がかかった。
「ひゃっ……つめっ!」
「何をしている。」
「ぬ、ぬくもりを感じてただけですっ。」
伊佐が肩を震わせて笑いを堪えている。私も思わず笑みをこぼした。戦の準備の最中であっても、こうした一瞬の緩みがあっていい。
「……小夜、風邪をひくなよ。」
「は、はい……ありがとうございます……。」
頬を赤らめる小夜に、伊佐が「殿に可愛く見せたいなら、鼻水垂らすなよ」と小声で言うと、小夜が頬を膨らませて伊佐を睨んだ。
私は立ち上がり、机に両手を置いた。
「伊佐、小夜、黒脛巾組全員に伝えよ。」
二人の目が真剣になる。
「雪が融ける。そのとき、この策を動かす。相馬の援軍が動けば、動いた瞬間に撃ち抜く。砦は戦の始まりの地だ。」
伊佐が低く答えた。
「……承知。」
小夜も頷いた。
「殿……必ず、お護りします。」
私は彼女たちを見渡し、静かに言った。
「俺を守るのではない。伊達を守れ。民を守れ。」
その瞬間、雪がまた障子の外で崩れ落ちた。
春は、すぐそこまで来ていた。
(了)