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『雪融けを待つ影──伏兵の刻』

雪は、融け始めていた。


まだ夜は凍るような寒さだというのに、昼間の陽光が地表を叩き、米沢城の土の匂いをわずかに漂わせ始めていた。屋根の雪がわずかに音を立てて崩れ落ち、氷柱が溶けて雫を落とす。冬と春が綱引きをしている最中の匂いだ。


その匂いの中で、私は筆を執っていた。


「……ここだ。」


筆の先で地図の一点を突く。


私の部屋の障子は閉ざされ、外の光は差し込まない。だが、蝋燭の炎が揺れる光の中で、私の前には広げられた和紙の地図が広がっていた。


六歳の子供の手には余るほどの大きさの地図。宮城南部から福島北部、磐城、常陸へ抜ける道筋を記した手製の地図だった。


その線は、私が転生する前に毎晩のように眺めていた地図アプリの地形線と重なっていた。ジオゲッサーという地図推理ゲームに没頭し、道の曲がり方、川の流れ方、山の切れ方、谷の入り込み方……それらを飽きることなく眺め続けた記憶が、この戦国の世の私を支えていた。


「……ここだ、ここしかない。」


磐城と会津を結ぶ山道。相馬家が大内定綱へ援軍を送るとしたら必ず通るであろう道筋があった。谷が狭まり、川が小さな湿地をつくり、そのわきに獣道のような細い道が通る。足を取られる湿地帯、急な坂道、両脇は切り立った崖。そこに伏兵を潜めることができれば、一軍を丸ごと葬ることすら可能だ。


「伊佐、小夜。」


背後に控えていた黒脛巾組の伊佐と小夜がすぐに身を乗り出した。二人ともこの数ヶ月で私の指示に慣れている。私が指で示す場所を見て、すぐに理解したようだった。


「黒脛巾組の精鋭に伝えてくれ。この場所を調べる。川の深さ、土の軟らかさ、崖の高さ、樹木の密度、獣道の広さ。すべてだ。」


伊佐が鋭く頷く。


「了解でございます。三日あれば詳細を持ち帰ります。」


「……三日だ。」


小夜の瞳が揺れ、私を見つめた。


「殿。……この地図、どこで学ばれたのですか。まるで空から見たような正確さです。」


一瞬、息が詰まった。だが私は目を逸らさず、微笑んだ。


「夢で見たのだ。」


小夜は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに頷き直した。その顔に微かな笑みが浮かび、その笑みはすぐに消えた。


「……かしこまりました。」


私が六歳の子供であることを、彼女たちは忘れていない。だが私が六歳の子供でいられないこともまた、彼女たちは知っているのだ。


地図に視線を戻す。


指で線をなぞる。宮城から福島へ抜ける谷筋、湿地帯、山道。地形が目の前で立体的に起き上がり、風が吹き抜け、木々が揺れる音が聞こえるようだった。


私の目には見えていた。


そこに黒脛巾組が潜む姿、相馬の援軍が緩みきった列を成して進む姿。湿地に足を取られ、急な斜面に陣を張れず、動けない彼らに向けて放たれる無数の『静矢』の音。


「ボウガンは整備を続けさせよ。矢の羽根が湿気で重くならぬよう、乾燥させる工夫を加えること。夜間での射撃も視野に入れ、火矢の用意も考えておく。」


伊佐が静かに口を開く。


「殿、砦を築くか否か。」


「築く。簡素で構わぬ。丸太で矢倉を組み、盾となる土塁を築き、伏兵の拠点とする。見張り台は高くせず、杉の幹に掘り込みを作って登らせろ。薪を蓄え、夜には焚火を起こすな。煙で場所を悟られる。」


私の言葉に、伊佐と小夜が視線を交わし、頷く。


「では、黒脛巾組より二十名を選抜し、工作と警戒を行わせます。」


「足りぬ。三十名だ。」


小夜が目を見開きかけて、すぐに引き締めた。


「三十名……かしこまりました。」


三十名の忍び。夜の山で呼吸を潜め、匂いを消し、虫や鳥の声に溶けるその姿は、相馬の兵にとって悪夢となるだろう。


だが、私は恐怖を覚えていなかった。


これが戦だ。戦とは、決して『戦場にて槍を交える』だけではない。


血を流さずに勝つことこそ、戦の本質だ。


黒脛巾組が去り、障子が閉まる。蝋燭の炎が揺れる音だけが残った。


私は地図をじっと見つめた。


戦いの音が遠くから聞こえる気がした。


それは、まだ融けきらぬ雪の奥に潜む春の鼓動。


それは、私の胸の奥で脈打つ鼓動。


「……もうすぐだ。」


私の指先が、地図の一点を押さえた。


小手森城。


大内定綱。


相馬の援軍の道筋。


私が進む天下への道。


雪が融けるとき、全てが動き出す。


その時を待ちながら、私は深く息を吐き、指を地図から離さずに目を閉じた。


(了)

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