『兄妹の手──右目がうずく夜に』
夜が静かすぎて、怖い。
いつもなら、薪のはぜる音や、遠くの虫の声が聞こえていた。
だけど今は、どこまでも無音だ。
音が聞こえないわけじゃない。ただ──俺の右側が、世界から切り離されてる。
右目の奥が、うずく。
鋭い痛みじゃない。
でも、ズキズキと、奥の奥から何かが疼いてくる。
「……っ」
顔をしかめると、布団の傍らで誰かが身じろいだ。
「……梵天丸さま……」
小さな声。
掠れて、それでいて、泣きそうな響き。
喜多さんだった。
俺の看病をずっと続けてくれていた彼女。
美しくて、凛として、そしてなぜか──
今日は、異様なほどに黙り込んでいた。
「……痛むのですね」
彼女が差し出したのは、冷やした白湯。
手が微かに震えていた。
俺はうなずきかけて──ふと、彼女の顔に目を留めた。
目元が、赤い。
……泣いてた?
「……あの、喜多さん……?」
声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らした。
まるで、怒られるのを覚悟した子どものように、身体を縮める。
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
何度も、何度も、繰り返されたその謝罪に、俺は困惑する。
「……え? なんで謝ってるんですか。
看病してくれて……助かってますし……むしろ、感謝しか……」
言いかけたところで、彼女が顔を上げた。
潤んだ瞳が、俺の片目をまっすぐに見据えていた。
「……目を、奪ったのは……あの者は……私の弟なのです」
一瞬、意味が分からなかった。
弟?
奪った?
──あのとき、俺の右目を抉った青年。
静かで、端正で、目に冷たい覚悟を宿していた……あの男の名は──
「……片倉、小十郎……」
喜多は小さく、震える声で頷いた。
「私の、実の弟です。小十郎景綱……あれは、家を出る前、私のことを“姉上”と呼んでおりました……」
まるで懺悔のように、言葉がぽつりぽつりと落ちてくる。
「小十郎は、幼い頃から冷静で、でも……優しい子でした。
私が病を患ったときも、ずっと背負って寺まで通ってくれて……
それなのに……こんな……こんなかたちで……」
彼女の指が、俺の頬に触れそうになって、止まった。
震える手。触れてはいけないという自制。
だけど、俺はわかってた。
喜多さんは、悪くない。
あれは、どうしようもなかった。
父の決断。薬師の診断。小十郎の忠義。
誰が悪かったわけでもない。
でも、そう思わなきゃいられないのは、“兄妹”だったからなんだ。
「……喜多さん」
俺は、ゆっくりと彼女の手を取った。
細くて、でも温かい手だった。
さっきまで震えていたのに、今は俺の手の中で落ち着いていた。
「俺……いや、俺“たち”は……戦国時代に生きてるんですよね」
苦笑混じりに、そう言うと、彼女は目を丸くした。
「病気ひとつで目を失って……
家族同士で命を守るために、こんなことになる。
理不尽だし、正直、まだ受け入れられてないけど──」
でも、と続けた。
「あなたが弟さんと同じように優しいことだけは、知ってます」
喜多の目に、涙が浮かんだ。
けれど今度は、流れなかった。
その代わり、彼女はそっと俺の手を握り返して、静かにこう言った。
「……梵天丸さまが、少しでも痛みから逃れられるように。
私が、ずっとお傍におります。
弟の分まで、支えさせてください」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
目は、もう戻らない。
でも、失ったものばかりじゃない。
こうして、誰かの手に支えられている。
右目の奥が、まだうずく。
でもその痛みの奥に、何か温かいものが灯っていた。
──たぶん、これは最初の味方だ。
戦国時代に転生した俺が、最初に得た“絆”。
喜多と小十郎。兄妹。
これから何があっても、この二人は──俺にとって、特別になる。
そう思えた。
そう、信じた。