『それは大人の秘密──時宗丸、鼻の謎を追う』
【時宗丸 一人称視点】
――兄上の鼻の下が、伸びた。
この不思議な現象を、見逃すことなどできようか。否、断じて否である。
なぜ伸びる? なぜ女の者を見つめるときだけ伸びるのか?
しかもあれは意図して伸ばしておるのではない。自然と、ふにゃりと、まるで日向の猫のように。
……こわい。いや、こわくはない。だが、不気味だ。いや、神秘だ。
つまりこれは、「修行」なのではあるまいか?
よし、聞こう。
その日、わたしは勇気を振り絞り、かねてより“おとな代表”と見なしていた二人の侍に話を持ちかけた。
ひとりは鬼庭左衛門。
がっしりとした体つきに鋭い眼光。だが、いつも馬の世話を手際よくこなす、どこか優しさのある大人。
もうひとりは片倉小十郎。
若いが切れ者で、剣術の構えひとつにしても隙がない。兄上も「こやつは手強い」と言っていた。
わたしは、二人が馬屋の裏で藁束を整理しているときを狙って声をかけた。
「左衛門、小十郎」
「ん? おお、時宗丸様」
「今日は何か、稽古のことかな?」
わたしはこくりと頷き、少し間を置いてから問うた。
「……なぜ、兄上は喜多殿や鈴を見ると、鼻の下が、伸びるのですか?」
ふたりの手が止まった。
「………………」
藁をつかんだまま固まる左衛門尉。
「………………」
熊手を持ったまま動かなくなる小十郎。
「なぜ黙るのです? わたしは本気で知りたいのです」
「……ぬう」
「これは……説明が難しい」
「修行ですか?」
「えっ」
「違いますか? 兄上は鍛錬を怠らぬ御方です。あの鼻の下の伸びも、何かしらの型なのではないかと。女を見て学ぶ、“鼻下伸展の型”」
「な、ない!」
「それは違いますっ!」
ふたりが声を揃えた。
左衛門は咳払いしてから、ゆっくりと言った。
「……あれはの、男というものの、性じゃ」
「性……性……性とは?」
「うーん……つまり、喜多殿や鈴が、こう……綺麗である、と」
「綺麗であると、鼻が伸びる?」
「違う違う、そうじゃなくて、いや、そうでもあって……」
「どっちですか?」
「わからんようになってきた」
小十郎が助け舟を出すように、静かに告げた。
「時宗丸様。あれは――“心が動いた”しるしです」
「心が……動いた……?」
「そう。人は強く心が動いたとき、顔に出る。頬が赤くなったり、目が潤んだり。兄君の場合は、それが鼻の下だった。それだけの話です」
「ほう」
「……で、それ以上のことは、おとなになってから考えるとよい」
「それは、また後に学ぶ型なのですね」
「……うん、まあ、そういうことにしておこう」
左衛門と小十郎が、ほっと安堵の息をつくのを、わたしは見逃さなかった。
なるほど。つまり、兄上は鍛錬に余念がないゆえ、女の者を見るたびに「心を鍛えておられる」のだ。
鼻の下が伸びるのは、その副作用。あるいは進化の証……。
わたしはひとりうなずいた。
その晩、布団の中でわたしは密かに決意した。
わたしも、兄上のように――鼻が伸びる日を、迎えてみせる!
……いや、やっぱりそれは、少しだけ怖い。
だからまずは、心を伸ばす修行から始めようと思った。
仏道修行の道は、やはり深い。兄上は、遠い。