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『鼻下の道理、子には早すぎる』

秋風が肌寒くなってきたある夕暮れ時。

稲刈りも終わり、寺の一角では、夕餉の準備をしていた喜多と鈴が、揃って囲炉裏の火の加減を見ていた。


「ほら、梵天様、味見してみてくださいな」


喜多が自慢の椀を差し出せば、鈴も「こっちのおかずも召し上がれますか?」と微笑みを向ける。


(なんだこの状況……前世の俺なら、課金しないと見られないイベントだぞ……)


目の前に広がる、華やかな娘たちの笑顔と、美味そうな匂いと、さりげない仕草。

特に最近、奉公に加わったばかりの鈴は、まだ慣れていない所作がいちいち危なっかしく、それがまた妙に可愛らしく見える。


その様子をぼんやり眺めていた俺の鼻の下が――どうやら、ふわりと伸びていたらしい。


「……梵天様、鼻が……」


背後から、あどけない声が飛んできた。


時宗丸だった。


彼は不思議そうに俺の顔をじっと見つめたあと、すぐにそばで薪を割っていた虎哉宗乙に駆け寄った。


「虎哉殿。なぜ、兄上の鼻の下は、伸びておるのですか?」


ぴたりと動きを止める虎哉宗乙。


薪を割る手を静かに下ろし、顎に手を当てて思案顔をつくった。


「……うむ。よい問いじゃ。されど、それは“答える者によって、真が変わる”類の問いよ」


「は?」


「例えばな、ある者は“色香”と言い、またある者は“本能”と説く。あるいは“魂の震え”と答える者もおる。されど、どれも正しく、どれも不完全なのだ」


「……もっとわからんようになりました」


「ふむ……では、こう申そう。鼻の下が伸びるとは、“仏性が色に惑う瞬間の象徴”なのじゃ」


時宗丸、ぽかんと口を開けたまま固まっている。


「では、鼻の下を伸ばすと仏になれぬのですか?」


「むしろ、それを経てこそ、真の悟りに至る者もおる。されど多くの者は……そのまま地獄へ堕ちる」


「どっちなんですか!」


「それを定めるのは、余ではなく――そなた自身よ、時宗丸」


「わたし、鼻の下……伸びるのかな……?」


「いずれな。心に“揺れ”が生まれたとき、それは自然と表れる。されどそのとき、鼻ではなく、心の“芯”を伸ばせるかどうかが……真に問われるのじゃ」


(なんの話だ……)


物陰で話を聞いていた俺は、思わず苦笑していた。


鼻の下は――伸びる。

それが喜多の笑顔や、鈴の仕草や、伊佐の妙に艶やかな眼差しのせいだったとしても。

それは、俺がまだ煩悩を抱える“少年”である証でもあった。


(……いや、俺は……悟るつもりなんて、ないぞ)


心の中でそっと呟きながら、再び囲炉裏の湯気へと顔を戻した。


鈴の笑顔が、火の明かりにふわりと照らされていた。

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