『湯煙の邂逅──鈴、背中を流します』
秋の夜、寺の湯殿では薪が静かに弾け、白い湯気が立ち昇っていた。
一日の農作業の疲れを癒すため、俺はいつものように、寺の裏手にある湯屋へと足を運んでいた。喜多の取り計らいで、最近は湯も熱すぎずぬるすぎず、心地よい加減に調整されている。
肩まで湯に浸かると、ほうっと息が漏れた。
(秋の稲刈りもようやく終わったな……)
今年は不作だったとはいえ、土に向き合う日々は確かに俺を鍛えてくれた。前世にはなかった筋肉痛も、今ではもう馴染み深い。
と、そのとき――。
「失礼いたします」
戸が静かに開く音とともに、誰かの声がした。反射的に振り返ると、湯気の中から現れたのは……薄桃色の浴衣姿の鈴だった。
「す、鈴さん!?」
「ご無礼を承知で参りました……。その……お背中を、お流しできればと……」
そう言って、鈴は膝をついてたらいと手拭いをそっと置く。たどたどしくも、その姿勢は真剣だった。
浴衣は薄手の木綿で、湯気に濡れて肌に張りつき、その下の線があまりにも……。
(ちょ、ちょっと待て……これはさすがに……)
「いや、そんなつもりで来たわけじゃ……! 喜多様に、風呂場の使い方も覚えるようにと……でも、あまりに疲れたお顔をされていたから……つい……っ」
「い、いや、気にしないで。俺が驚いただけだから……」
(だめだ、目が泳ぐ……前世でもこんなシチュエーション、ラノベでしか見たことないぞ!?)
鈴は頬を少し染めながら、手拭いを手に取り、そっと俺の背へと触れた。
「……ぬくもりが、残ってますね。秋なのに、背中は熱い……」
「そ、それは……日中ずっと外にいたから、日差しのせいで……」
ぬるめのお湯に絞った手拭いが、静かに背中を滑っていく。そこに鈴の細い指が触れるたびに、どこかくすぐったく、心臓がやけに主張してきた。
「ふふ……。お背中、広いんですね。たくさん働かれた証、ですね」
鈴の声が耳に近づいた気がして、俺は思わず前かがみに姿勢を変えた。
「す、すずさん! あんまり近くに……っ」
「きゃっ!? す、すみません……!」
バランスを崩した鈴が俺の背に軽く体を預けてしまう。湯船の水面が小さく跳ねた。
(ちょっと待て、これ……本格的にラッキースケベってやつじゃないか!?)
「ご、ご無礼を……! すぐに出ますっ」
「い、いや、そんなに気にしないで……! 落ち着いて……!」
「あっ……着物が……濡れて、透けて……っ」
(あああああああ! 目を閉じろ俺! 閉じないと宗乙師匠の正拳突きが脳裏に飛ぶぞ!!)
やがて鈴は湯屋をそそくさと出ていき、その場には俺一人が残された。
湯気に包まれた湯殿の中、俺はゆっくりと肩まで湯に沈み、ひとつ息を吐いた。
「……虎哉宗乙師匠……心を無にするのって、難しいですね……」
――秋の夜。背中を流すという、なんでもない出来事のはずが、俺の胸をざわつかせていた。