『不動明王、夢枕に立つ──梵天丸、筆と智の稽え』
秋の朝は、澄んでいる。
寺の裏手から聞こえる鶏の鳴き声と、揺れる芒の葉音が、梵天丸としての一日をそっと始めた。
――俺は今日、寺の奥にある学房の一隅に、独り腰を下ろしていた。前日、くノ一たちと命のやり取りを経たとはいえ、朝は来る。学びは休まぬ。何事もなかったかのように、筆を執っていた。
目の前に広げているのは、地図だ。
木簡を元に自分で写しとった奥州の山川と要地、その道筋を一つずつ描いていく。庄内から仙北、津軽から白河の国境まで。主だった城館の位置と、その支配者の名を書き添える。
「最上義光」、「白河義実」、「相馬盛胤」「田村」「佐竹」「北条」「大崎」……
筆が迷うことはない。まるで、記憶から自然に浮かび上がってくるかのように。
そうして、俺が「会津」の枠に「蘆名盛氏」と書き込んだときだった。
「……ふむ、なんと……?」
背後から、虎哉宗乙老師の低く太い声が響いた。
「梵天……いや、政宗様よ。これは……そなたが描いたものか?」
老師が、俺の背後からそっと地図をのぞき込んでいる。
しまった、と思った。あまりに無意識に書き込みをしていたせいで、俺は我を忘れていた。目の前の紙は、地元の子どもが描いたとは思えぬ、かなり精緻な東北の軍略図と化していた。
いや、いかんいかん、やりすぎた。
老師の目が、地図の端から端までを舐めるように動いていく。
「……磐城の海岸線……常陸の山々……そして、なぜにそなたは、相馬家の城数をこれほど正確に記しておる?」
「……」
口をつぐむ俺。
しかも、すぐ隣には、くノ一の伊佐と小夜までいる。変なことを言えば、“正体”を疑われるのは時間の問題だ。
俺は、苦し紛れにこう口走った。
「……これは……あの、不動明王様が……夢枕に立って……教えてくださったのです……」
虎哉宗乙がぴたりと動きを止めた。
空気が、変わった。
「……夢枕、とな?」
「……はい。不動明王様が……地図を持って、教えてくださいました。“我が道を学び、伊達を照らす灯となれ”と……」
自分で言いながら、我ながらよくこんな嘘が出てきたなと感心する。
が、老師はしばらく黙り込み、やがてふむ、と深く頷いた。
「そうか……不動明王様、とな……」
その目はどこか遠くを見つめていた。
「不動明王は、古より軍神の相を持つ……煩悩を断ち、悪を裁く怒りの神。仏にして修羅の心を宿すと伝え聞く。上杉謙信公など、みずからその加護を得し大名の例は数あれど……」
ふと、俺を見た虎哉宗乙の目に、いつもの瞑想にも似た柔らかさではない、熱のようなものが宿っていた。
「……まさか、本物は……この寺においでか」
「……」
俺は笑ってごまかすしかなかった。
「え、ええと……夢、ですから……たまたま……」
その後、虎哉宗乙は何も言わずに立ち去ったが、その晩。
伊佐が寺の井戸端で耳にしたという。
「……聞きましたか? 梵天丸さま、不動明王の夢を見て軍略を授かったそうですよ」
「おお、それは……“天啓”というやつでは……」
「ほれみたことか。やはり政宗様は只者ではない」
ささやきは風に乗り、僧たちのあいだを巡った。
翌日には寺の端々で、見習いの僧たちが“御加護”の印として不動明王像に小さな榊を供えていた。
そして三日後には、寺の出入りの町人の間にすらこうした話が流れはじめる。
「政宗さまは、怒れる仏に見込まれたお方らしい」「相馬の刺客を退けたのも、きっと不動明王のご加護だ」……
まるで、神の仔でも生まれたかのような騒ぎであった。
それを聞いたとき、俺は思った。
(やばい、盛ってしまったか……)
でも、これは使えるかもしれない。
武力も、知恵も、そして信仰も──人の上に立つには、そのすべてが必要なのだと。
こうして、“不動明王の夢告”は、やがて「伊達の若君には加護がある」というかたちで尾ひれがつき、信仰と政治が混じりあった、新たな“梵天丸伝説”の始まりとなるのであった──。