『夏の終わり、遠藤基信の静かな眼差し』
山を抜ける風が、ほんの少しだけ冷たくなっていた。
立秋を過ぎたばかりの八月末。日差しは鋭くとも、土の匂いに混じって、夏の終わりの気配があった。
私は馬を下り、草履の紐を締め直しながら、寺の門前に立つ。
梵天丸様がこの寺に入って、もう半年が過ぎた。
たびたび使いを出し、文を交わしてはいたが、こうして直に会うのは一月ぶりになる。
(……顔を見ておかねばならぬ)
それが、遠藤基信としての務めだと思っている。
門をくぐると、くノ一の一人が、私に気づいて軽く会釈をした。黒く焼けた肌に、目元は油断のない光をたたえている。
「……お戻りですか、遠藤殿」
「ああ。よく見ておるな、小夜」
「護衛役ですから」
小さく笑って奥に引っ込む彼女の背を見送りながら、私はゆっくりと庭を歩いた。
遠くの本堂では、またしてもあの二人が声を荒げている。
「おぬしの教えは理屈に傾きすぎている!子どもに禅問答を仕掛けて何になる!」
「心を鍛えずして、剣や政を学ばせて何になる。まずは“己の問い”を抱かせることが――」
(……またか)
虎哉宗乙と鬼庭左月。どちらも真剣なのだろうが、互いに譲る気はさらさらない。
私は聞き慣れたそのやりとりを背に、梵天丸様のいる修行場へと足を向けた。
「――遠藤殿!」
涼やかな声が木陰から飛んできた。
修行を終えたばかりの梵天丸様が、汗をぬぐいながらこちらへ駆け寄ってくる。白木綿の稽古着には泥の跳ねがあり、草履の片方が脱げかけている。
「また来てくださったのですね」
「参上仕った。お変わりはないか」
「はい。鬼庭殿にも打たれましたが……ちゃんと我慢しました」
胸を張って報告するその姿に、私はふっと目を細める。
(成長したな)
かつて、涙と共に私の袖を握った小さな手が、いまやこうして修行を自らの糧とするまでになった。目には光がある。言葉に迷いがない。
「左月殿も、虎哉殿も……どちらも、正しいと思うのです。ただ、少し……言い方が、怖いときがあって」
そう言って、困ったように笑う。
「……左月殿の“問答”は拳ですからな」
「はい。虎哉殿のは、禅ですし。……どちらも、難しいです」
梵天丸様は、私の隣に腰を下ろした。
「ですが、遠藤殿の言葉が一番、分かりやすいです」
「ほう、拙者の言葉が?」
「はい。“分からぬことは、分かるまで考えよ。けれど、迷いすぎるな”って」
あれは以前、彼が初めて負けを喫して泣いたときに言った言葉だった。
(……覚えていてくださったか)
縁側にて、彼とふたり、しばし虫の音に耳を澄ます。
「……母上が、一度いらして、すぐにお帰りになりました」
「うむ。聞いておる」
「私が、いけなかったのでしょうか」
「そんなことはない」
私は言い切った。
「殿の御台所は、気丈なお方だ。されど、母としては……おぬしの“成長”に戸惑っておられるのやもしれぬ」
「戸惑う……ですか?」
「子は、あっという間に変わる。母が知っているのは、かつての幼子の姿のみ。されど、その姿をそのまま求めれば、いずれ子の成長を妨げる。……殿も、そうならぬよう、日々己を正しておられる」
梵天丸様は黙ってうなずいた。
その横顔が、妙に“大人びて”見えた。
「拙者、今、竹とんぼを削っております」
「竹とんぼ?」
「弟に。米沢におります。……せめて、なにか“兄”としてできることをと思って」
私は、確信した。
この子は、もはや“器”がある。
ただの家督相続者ではない。家の未来を考え、人を見て、己を律しようとしている。
私は、深く息を吐いた。
「……いずれ、殿も、家臣も、皆が気づきましょう」
「え?」
「おぬしこそが、伊達の柱であると」
夜、私はひとり、寺の裏手にある松の根本に立っていた。
遠くから、くノ一たちの笑い声が聞こえてくる。梵天丸様はすっかり彼女たちと打ち解けていた。
片や、あのくノ一どもに鼻の下を伸ばしていたのを、偶然訪れた義姫様が目撃し、何も言わず帰ってしまったのは……つい先日のことだった。
──「梵天丸では駄目かもしれない……」
そのつぶやきは、母親としての絶望か、それとも焦りか。
だが、私は確信していた。
母上の不安を、梵天丸様は超える。
この少年は、伊達を継ぐべき器だと。
その夜、私は文をしたためた。
〈遠藤基信 私記〉
「梵天丸様、ただいま七つにてすでに政の芽あり。
剛毅にして礼を尽くし、寛容にして礼を正す。
虎哉の禅も、左月の剛も、皆、育ちの糧と為し。
拙者、以後の道において、常に御側に在りたいと存ず。
この子こそが、伊達の“柱”たりうる者と信じ申す」