『父の決断──そして、片目の光を失う時』
ようやく、熱が下がった。
どれだけの時間が経ったのか分からない。
体中の皮膚は相変わらず乾いて痛むし、喉もヒリヒリする。
けれど──
少なくとも“死ぬかもしれない”という感覚は、少しだけ遠ざかっていた。
「梵天丸さま……熱が下がってきております」
相変わらず、喜多さんは優しく看病してくれている。
相変わらず、美人だった。
でも今日は、彼女の表情が少し強ばっている。
眉のあたりに微かに浮かぶ、悲しげな迷い。
何か言いたいことを飲み込んでいるような、そんな顔だ。
「どうしたの……?」
俺がかすれた声でそう尋ねた直後──
廊下の襖が、音もなく開いた。
「──梵天丸」
威厳に満ちた声が、部屋に響いた。
その声に、空気が一瞬にして張り詰める。
現れたのは、伊達輝宗。俺──いや、梵天丸の父だ。
長身に威風堂々たる佇まい。
鎧こそ着ていないものの、刀を差したまま、まっすぐ俺を見ていた。
その瞳には、確かに“父親の情”があった。
けれど同時に、領主としての冷徹な覚悟も滲んでいた。
「父上……」
唇が震えた。
言葉にする前に、輝宗の隣から、もうひとりの男が一歩前に出る。
痩せぎすで皺だらけの顔、いかにも“薬師”という風貌の老人だ。
「……右目にございます。熱が引いたとはいえ、腫れと毒膿が奥まで至っております。
このままでは、頭に回りましょう。命が尽きるのも時間の問題と……」
俺は理解した。
──来た。
これが、“あの”決断だ。
歴史の通りなら、父・輝宗は、このあと決断する。
息子の命を救うために、右目を……潰す。
「待って、待ってください父上!」
俺は叫んだ。ほとんど声になっていなかったかもしれない。
だが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「まだ……まだ見えるんです! 目を潰さなくても……きっと、治りますから!」
必死だった。
この世界で、未来を変えるチャンスがあると思った。
戦国を攻略するとか言ってたくせに──
自分の目を失うって現実の重みに、今さら震えていた。
だが、父は言葉を返さなかった。
ただ、まっすぐに俺を見たまま、薬師の言葉にうなずいた。
その一瞬、部屋の空気が凍った。
「お許しくだされ──梵天丸さま!」
家臣たちが、俺の体を押さえ込む。
痛む体に無理やり力が加えられ、俺は畳の上に仰向けに倒された。
「やめて! やめてください!
お願いだから……目だけは、やめて!!」
涙が出た。
情けなくても、叫ばずにいられなかった。
そのときだった。
静かに、足音が近づいた。
俺の顔の上に影が差す。
「……申し訳ありません、梵天丸さま」
その声は、男にしては柔らかく、どこか冷たいほど静かだった。
見上げた視界の左側に映ったのは、整った顔立ちの青年。
端正な目元、切れ長の黒目。
ほのかに青白い肌、長く引かれた眉。
──誰だ……こいつ……
その男は、刀ではなく──医師の使うような、短い細身の小刀を持っていた。
「あなたの命を守るため──どうか、御容赦を」
家臣が、名前を呼んだ。
「片倉小十郎景綱、いざ」
……片倉小十郎。
伊達政宗の筆頭家臣。
その忠義と冷静さで知られる、美丈夫。
そして、政宗の生涯を支え続ける男──
──やめろ。
頼むから、今だけは家臣じゃなくて、友達でいてくれ……!
「……っぐ、うわああああああああああああ!!!」
その瞬間、視界が白く跳ねた。
激痛が、世界を貫いた。
右目から、顔の奥まで。
脳にまで、何か鋭いものが差し込まれたような、
目玉ごと内側からひっくり返されるような、耐え難い痛み。
誰かの声が遠くで響いていた。
父か、小十郎か、喜多かもわからない。
すべてが、遠く、揺れて、壊れていった。
──右目は、もう、そこにはなかった。
すべてが、静かになった。
泣いていたのか、汗なのか、血なのか──わからなかった。
けれど、ただひとつだけ分かっていた。
俺は、もう二度と、右目でこの世界を見ることはない。
だが同時に、何かが始まった気がした。
これは、喪失ではない。
始まりだ。
俺が“伊達政宗”になるための、最初の痛み。
「……覚えてろ、戦国日本。
右目を代償に、俺は、お前たちの未来をひっくり返す」
朦朧とする意識の中、俺は小さく、そう呟いた。
聞こえていたかは分からない。
でも──それが、俺の“宣戦布告”だった。