『教育合戦、そして母の嘆き──梵天丸では駄目かもしれぬ』
寺に戻って数日、俺は──というか、俺を巡って寺中が騒がしくなっていた。
事の発端は、虎哉宗乙と鬼庭左月がとうとう「教育合戦」なるものを本格的に始めてしまったことだった。
名目は「殿の将来を見据えた包括的育成の模索」などとご大層な名前がついていたが、実態はもう完全に大人げない意地の張り合いである。
「左月派、参るぞ! 今朝は城中式の鍛錬を三つ組んである! 一刻後には禅剣交差の型稽古!」
「ふはは、愚かよ左月殿。こちら虎哉派は本日、論語の素読に続いて和歌百首の暗誦、さらに『貞観政要』の講釈をば!」
──いやいやいや。
どっちにしろ、まだ俺五歳ですから!
しかし、俺のそんな心の叫びなど知る由もなく、二派は「今日の予定表争奪戦」で連日ぶつかり合い、ついには護衛の片倉小十郎と喜多を巻き込み始めた。もはや完全に「どちらが未来の政宗を育てるか」戦争である。
そして運命のその日──。
「……なにやら、山を越えて駕籠がひとつ参っておりますぞ」
早朝、山門の見張りが緊張した面持ちで報告してきた。
そう、それは──俺の母、義姫が突然の来訪を果たした日だった。
梵天丸(=俺)は真っ青になった。
義姫──伊達家に嫁いできた、あの名門大名・最上義守の娘。山形生まれ、才色兼備、言動厳格、表情冷徹。あの母が、どうして今ここに?
しかも虎哉と左月の教育戦争の真っ只中。タイミング最悪。
「い、いやちょっと待って、いま来られたら……!」
俺は縁側で慌てて衣を整える。黒ギャルくノ一たる伊佐と小夜が、涼しげに俺の脇に寄ってきた。
「おい殿~、背中の帯ゆるんでるよ~。あたしが結んであげる♡」
「もう……伊佐、わたしがやるってば。あんた、甘やかしすぎ~」
「へへーん、だって殿の腰、ちっちゃくて可愛いんだもん♡」
──いやいやいやいや!
俺は顔を真っ赤にして二人の手を払いのけようとしたが、すでに手遅れだった。
義姫が、門を越え、ちょうどその光景を──冷たい目で見ていた。
「………………」
「ま、まさか、あれが──」
「……梵天丸……殿下?」
義姫の後ろに付き従っていた侍女が、息を呑む。
俺は完全に凍りついた。
黒ギャル風くノ一二人が俺の肩を抱き、帯を調整しているこの絵面。しかも俺は真っ赤な顔で「あ、ありがと……」なんて言っていたのだ。
──これは、誤解では……いや、誤解じゃないかもしれないが、誤解であってほしい。
義姫は、まっすぐ俺を見て、ひとことも発せず、そのまま踵を返した。
何の説明もなく、荷も下ろさず、駕籠へと戻り、帰路についた。
ただ、駕籠に乗る際にぽつりと、こう呟いたという。
「……梵天丸では、駄目かもしれぬ……」
それは、山中を越えて参った母が、わずか十秒で帰るという、伝説的なエピソードとしてその後長く語られることとなった。
その晩、虎哉宗乙も鬼庭左月も口を開かず、寺はやけに静かだった。
小夜がそっと枕元に寄り、「……わたしも、ちょっとやりすぎたかな……」とぽつり。
俺は蒲団の中で、声もなく枕を抱きしめるしかなかった。
──母上……せめて、事情くらい聞いていってよ……。