『再び、寺へ──夏の湯治のあとで』
二週間にわたる湯治を終え、俺たちは再び寺へと戻った。
蝉の鳴き声が、これでもかというほどに響いている。山の緑は深く、光は眩しく、ただ空気だけが、少し秋の匂いを含み始めていた。
湯治で体調はすっかり戻ったはずなのに──なぜか、この山門をくぐると、肩にじわりと緊張が戻ってくるのを感じた。
「やっぱ、寺ってだけで背筋伸びるよね~」
伊佐が後ろで笑う。小夜は無言でうんうんと頷きながらも、手元の扇子で俺の背を仰いでくれていた。喜多は、無言で俺の荷を肩からそっと受け取ってくれた。
──ありがたいけど、俺、まだ“殿さま”じゃないんだけどな……。
そんなふうに内心で照れながら、奥の庫裏に向かおうとした、そのときだった。
「──愚か者! 湯治帰りの身に何が教えられましょうか! まずは経文三巻、座禅一刻、薪割り三束から始めるべきです!」
「なにを言うか、左月殿! 体に熱がこもっていた子に、いきなりそんな負荷をかければ逆効果! まずは穏やかに筆を取らせ、文筆より心の調律を試みるべし!」
まただよ。
庫裏の前で、俺は大きく息を吐いた。
虎哉宗乙と、鬼庭左月が教育方針で言い争っている。声を張り合い、互いに一歩も引かないその姿は、もう何度目か数え切れない。しかも──俺が留守にしていた二週間で、どうやらお互いの“譲れぬ正義”がさらに強固になっていたらしい。
「左月殿、よくお聞きなされ。“人は心にて人たるもの”! その心を整えぬままに躰を鍛えて何になる!」
「黙れ! 武門の子に必要なのは“心身一如”だ! 書など机上の空論にすぎぬ!」
「武門の子である前に、民の上に立つ者ぞ! 万巻の書を読み、人の痛みを知る目を養わねば──!」
「甘いわ! 書物に感けるは、実戦を知らぬ学者の論。民に語るは、まず剣にて威を示してこそ!」
バチバチと火花が見えるようだった。俺の心の中には、いつものように冷めたツッコミが浮かぶ。
──おい、そもそも俺、まだ五歳な……。
だが、同時に少しだけ誇らしい気持ちもあった。
この二人は、俺の未来を本気で考えてくれている。うるさいし暑苦しいけど、その言葉には嘘がない。虎哉宗乙は、教養と器量を磨くことを。鬼庭左月は、武と胆力を鍛えることを。
どちらも正しく、どちらも偏っている。
「──ええと……その、ふたりとも……」
俺が声をかけると、二人はピタリと口を閉じ、同時にこちらを見た。
その目が、真剣そのものだった。
「いかがです、梵天さま。まずは筆から始められますか」
「いやいや、まずは竹刀を握っていただきましょう」
「そ、その……俺、まずは……昼寝、していい?」
「…………」
その瞬間だけ、二人の怒鳴り合いが止まった。
伊佐と小夜が後ろで吹き出しそうになり、喜多は顔をそらして笑いを堪えていた。
俺はため息をつきながら、庫裏の縁側へと腰を下ろした。頭の奥にまだ、米沢の湯の香りが残っている。少しだけ、あのぬるい湯が恋しくなった。
「ま、また今日からか……」
そう呟いた俺の隣で、蝉が一匹、じっと柱に止まっていた。
──夏は、まだ終わらない。