『土嚢と神童──水と命を護る者』
捨て子の話が落ち着いたのは、数日後のことだった。
結局、小夜がしばらく面倒を見たあと、虎哉宗乙和尚の裁可でその赤子は「黒脛巾組」の里に預けられることとなった。黒脛巾とは、伊達の密使を務める者たち──主に忍びの里である。まだ幼き者たちの訓練や保護もしていると、和尚が教えてくれた。
僕は少し悔しかった。
今の僕では、何もできない。
“育成の場”を作ることも、誰かの生き方を守ることも──すべて「まだ早い」と言われてしまう。
悔しい。けれど、覚えておこう。あの赤子の顔を。小夜の悲しみを。和尚の問いかけを。
だから僕は、ただ修行に励んだ。
竹刀を振り、書を読み、体を鍛える。
その数日後だった。
七月の初め、空が暗くなった。蝉の声すらかき消すような轟音と共に、黒雲が寺の上を覆った。
「台風……のようなものかもしれませぬな」
虎哉宗乙が空を仰いで言った。
山から吹き下ろす風は強く、雨脚は昼でも提灯が必要なほどの土砂降りだった。川はすぐに濁り水を増し、町に暮らす農民たちの間に緊張が走った。
──堤防が、持たないかもしれない。
その噂が寺まで届いたのは、降り始めから三日目の朝だった。
「田が……田が全部流されちまう……!」
泥にまみれた男たちが境内に駆け込んできて、和尚に懇願するように言った。
「どうか、人を……人手を貸してくだせえ! 堤防が、いまにも──」
そのとき、僕は立ち上がった。
「土嚢です」
誰かが目を見張った。
「土嚢を積んで、堤防の一番弱っているところを補強すれば……きっと、耐えられます」
僕の声は、小さく、でもまっすぐだった。
「ど、土嚢?」
「袋に土を詰めて、重しにして積むんです。昔、父上の文に……そう書かれてました」
かすかに震える声。
けれど、それは雨にも風にも負けなかった。
「誰か、米俵の袋と、鍬と、縄をください! 僕も、行きます!」
「バ、馬鹿な!」
小夜が叫んだ。「あなたはまだ五つ……!」
「僕は、梵天丸です。僕がやらなきゃ、誰がやるんですか!」
叫んでから、僕自身がその言葉に驚いていた。
でも。
僕の声に、誰かが応えてくれた。
「袋なら……ある!」
伊佐が倉庫から袋を持ってきた。
「俺も行く。下流の地形は知ってる。俺が案内する!」
農民たちも、目を見開きながら、それでも──うなずいていた。
──こうして僕は、堤に向かった。
◆
土砂降りの中、田畑はすでに水浸しだった。小川だったはずの水路が、もはや川となって流れている。
その川に沿って、僕たちは走った。
土嚢を作る場所を探す。
伊佐の指さした場所──そこが“薄い”ところだった。土の盛りが足りず、下が水に洗われている。
「ここだ!」
農民たちが一斉に鍬を振るい、土を掘り、袋に詰めた。小夜が濡れた髪を振り乱して、縄を締め、伊佐が全体を指揮する。
僕は──それを全部、見ていた。
そして叫んだ。
「右三段、左二段──支柱の前に横積みして、そこから! 力が分散するように!」
そう、文字でしか知らなかったはずの言葉が、口からあふれていた。
どこかで聞いたことがあった。
父の書いた戦支度の文。
「兵を布くように、物を積むべし。三段目に要を置く。川の力を“散らす”のだ」
◆
やがて、夜が来た。
雷が鳴り、川は吠えるような音を立てていた。
でも──決壊は、しなかった。
積んだ土嚢が、見事に流れをはね返していた。
誰かが、その土嚢の上に座り込んで泣いた。
誰かが、手を合わせて拝んでいた。
農民たちは僕を見て、口々に言った。
「……ありがてぇ……」
「神童だ……」
「梵天丸さまが、おらなんだら……」
僕は、濡れたまま立っていた。
服も、足も、すべてぐちゃぐちゃだった。
でも、その足元には、守られた田があった。
◆
その夜。
僕は冷えた体を拭いてもらいながら、小屋の囲炉裏の前でようやく眠った。
伊佐も、小夜も、そっと僕の体を抱くように寄り添って眠っていた。
──田を守った。
それだけが、僕の胸の中に温かく残っていた。