表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/194

『土嚢と神童──水と命を護る者』

 捨て子の話が落ち着いたのは、数日後のことだった。


 結局、小夜がしばらく面倒を見たあと、虎哉宗乙和尚の裁可でその赤子は「黒脛巾くろはばき組」の里に預けられることとなった。黒脛巾とは、伊達の密使を務める者たち──主に忍びの里である。まだ幼き者たちの訓練や保護もしていると、和尚が教えてくれた。


 僕は少し悔しかった。


 今の僕では、何もできない。


 “育成の場”を作ることも、誰かの生き方を守ることも──すべて「まだ早い」と言われてしまう。


 悔しい。けれど、覚えておこう。あの赤子の顔を。小夜の悲しみを。和尚の問いかけを。


 だから僕は、ただ修行に励んだ。


 竹刀を振り、書を読み、体を鍛える。


 その数日後だった。


 七月の初め、空が暗くなった。蝉の声すらかき消すような轟音と共に、黒雲が寺の上を覆った。


 「台風……のようなものかもしれませぬな」


 虎哉宗乙が空を仰いで言った。


 山から吹き下ろす風は強く、雨脚は昼でも提灯が必要なほどの土砂降りだった。川はすぐに濁り水を増し、町に暮らす農民たちの間に緊張が走った。


 ──堤防が、持たないかもしれない。


 その噂が寺まで届いたのは、降り始めから三日目の朝だった。


 「田が……田が全部流されちまう……!」


 泥にまみれた男たちが境内に駆け込んできて、和尚に懇願するように言った。


 「どうか、人を……人手を貸してくだせえ! 堤防が、いまにも──」


 そのとき、僕は立ち上がった。


 「土嚢どのうです」


 誰かが目を見張った。


 「土嚢を積んで、堤防の一番弱っているところを補強すれば……きっと、耐えられます」


 僕の声は、小さく、でもまっすぐだった。


 「ど、土嚢?」


 「袋に土を詰めて、重しにして積むんです。昔、父上の文に……そう書かれてました」


 かすかに震える声。


 けれど、それは雨にも風にも負けなかった。


 「誰か、米俵の袋と、鍬と、縄をください! 僕も、行きます!」


 「バ、馬鹿な!」


 小夜が叫んだ。「あなたはまだ五つ……!」


 「僕は、梵天丸です。僕がやらなきゃ、誰がやるんですか!」


 叫んでから、僕自身がその言葉に驚いていた。


 でも。


 僕の声に、誰かが応えてくれた。


 「袋なら……ある!」


 伊佐が倉庫から袋を持ってきた。


 「俺も行く。下流の地形は知ってる。俺が案内する!」


 農民たちも、目を見開きながら、それでも──うなずいていた。


 ──こうして僕は、堤に向かった。



 土砂降りの中、田畑はすでに水浸しだった。小川だったはずの水路が、もはや川となって流れている。


 その川に沿って、僕たちは走った。


 土嚢を作る場所を探す。


 伊佐の指さした場所──そこが“薄い”ところだった。土の盛りが足りず、下が水に洗われている。


 「ここだ!」


 農民たちが一斉に鍬を振るい、土を掘り、袋に詰めた。小夜が濡れた髪を振り乱して、縄を締め、伊佐が全体を指揮する。


 僕は──それを全部、見ていた。


 そして叫んだ。


 「右三段、左二段──支柱の前に横積みして、そこから! 力が分散するように!」


 そう、文字でしか知らなかったはずの言葉が、口からあふれていた。


 どこかで聞いたことがあった。


 父の書いた戦支度の文。


 「兵を布くように、物を積むべし。三段目に要を置く。川の力を“散らす”のだ」



 やがて、夜が来た。


 雷が鳴り、川は吠えるような音を立てていた。


 でも──決壊は、しなかった。


 積んだ土嚢が、見事に流れをはね返していた。


 誰かが、その土嚢の上に座り込んで泣いた。


 誰かが、手を合わせて拝んでいた。


 農民たちは僕を見て、口々に言った。


 「……ありがてぇ……」


 「神童だ……」


 「梵天丸さまが、おらなんだら……」


 僕は、濡れたまま立っていた。


 服も、足も、すべてぐちゃぐちゃだった。


 でも、その足元には、守られた田があった。



 その夜。


 僕は冷えた体を拭いてもらいながら、小屋の囲炉裏の前でようやく眠った。


 伊佐も、小夜も、そっと僕の体を抱くように寄り添って眠っていた。


 ──田を守った。


 それだけが、僕の胸の中に温かく残っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ