『捨て子と静矢──未来に向けて、矢を引く者』
六月の朝は、土の匂いが強い。
僕は竹ぼうきの柄を握って、寺の境内を掃いていた。夜の間に降った雨が、石畳にうっすらと水を残している。遠くでは小夜と伊佐が薪割りをしていた。草取りの合間にこうして掃除をするのも、もう日課だ。
だが、その朝は違った。
「──捨て子です!」
そう叫んだのは、薪置き場にいた伊佐だった。慌てたように手を止めた小夜とともに、裏門の方へ駆けていく。僕も思わずほうきを手放して走った。
門の傍ら──苔のついた石段の下、そこに小さな包みが置かれていた。包みといっても、ただの薄布にくるまれているだけだ。かすかに震えている。
「……赤子だ」
伊佐が声を潜めた。
「まだ生まれて間もないようです」
僕は膝をついて、小さなその顔をのぞき込んだ。白くて、弱々しくて、でもしっかりと生きている──そんな顔だった。
その時、小夜がぽつりと呟いた。
「……私も、こうやって捨てられたの」
え?
思わず顔を向けると、小夜は自分の袖を握りながら、空を見ていた。
「“口減らし”って言葉、知ってますか? 私は、冬の朝に……母に、泣かれながら、置いていかれたんです。あのときの背中、今でも覚えてる」
伊佐がそっと小夜の肩に手を置く。その指先は、どこか震えていた。
「……僕は」
気づけば僕は、拳を握りしめていた。
「和尚様……虎哉宗乙和尚!」
その声に応えるように、奥から和尚が現れた。静かに歩み寄り、赤子を見下ろす。
「さて、梵天丸殿。この子をいかがされる?」
「……え?」
「一人の命を救うことは、たやすい。しかし──このような子は、世に五万とおりますぞ。救うたびに、おぬしの懐も尽きましょう。いずれは、選ばねばならぬ日も来る」
選ぶ?
命を──?
「……だったら」
僕は立ち上がった。拳を握ったまま。
「だったら、僕が“場”をつくります」
虎哉宗乙は、眉をわずかに上げた。
「場、とは?」
「学校のような場所……いえ、“学問所”ではなく、“育成の場”です。忍びの術、武の技、そして生き抜くための知恵を学ばせる場所。読み書きと同時に、人として、そして“戦う術”を知る者を育てる」
「ふむ……そのような施設は、時に国を揺るがすものとなりますぞ」
「……ならば、僕のためのものとします。私に仕える者として育て、私の眼で見て、信じられる者だけを手元に置く。そうすれば、彼らの未来も、僕の力になる」
和尚はしばらく黙った。
「……女子と言えども?」
僕は、伊佐と小夜を見た。
そして、自分の“矢”を思い出す。
「“静矢”があります。飛び道具です。あれなら、体格に関係なく、武器となる」
僕が竹で作った簡易ボウガン──“静矢”。職人たちの手で改良され、今では立派な試作武器となっていた。矢と引き金の力、竹と弦の仕組み。女子でも使えるよう、軽量で扱いやすい構造にしたものだ。
「女子でも、戦えます。護れます。そして……学べます。生きていく術を、選ぶ権利を」
虎哉宗乙は、口元に手を当てたまま、しばらく僕を見ていた。
「──五歳でそこまで申すか」
彼の声は、どこか寂しげで、どこか嬉しそうだった。
「愚僧は仏に仕える身、戦の世を生きるには遠いかもしれませぬが……その志は、拝ませていただきましょう」
小夜が、赤子を抱き上げる。
伊佐がその背を支える。
僕は静かに、手を合わせた。
──その子が、どんな人生を選ぶかは、これからだ。
でも。
僕がその“選べる場”を作る。
そう決めた。