『草を抜く音、僕らの夏──伊達家の田畑にて』前編
六月──。
米沢の山間に広がる田畑は、濃く、深く、緑が満ちていた。朝露を含んだ稲の葉が風にゆれるたび、陽の光をはじき返し、きらきらと煌めいて見える。水面には青空が映り、空と大地とが一つになって揺れていた。
「ほら梵天丸様、指の腹で挟むようにして、根っこからだよ」
しゃがみこんだ伊佐が、にこにこと僕に草の抜き方を教えてくれる。褐色の肌に泥がついても気にするふうはなく、むしろ楽しげに指先を泥に突っ込んでいる。
その手つきは、まるで赤ん坊をあやすかのように優しい。だけど、草の根は容赦なく引き抜いている。手際の良さに、思わず見入ってしまう。
「ふむ……こっちの草のほうが手強いな」
隣で小夜が真顔で雑草と格闘している。くノ一でありながら、草取りにも本気なのが彼女らしい。すこし前まで刀を握っていた手が、今は鎌と手箕を持って、静かに地面と対話している。
「これは“ひえ”ですな。放っておくと稲を負かします」
「ひえ……稲と戦う草なのか」
「はい、兵糧戦の敵といってもいいでしょう」
「なるほど、これは討ち取らねばなるまいな……!」
刀の代わりに素手で泥に挑む僕に、小夜はちょっとだけ笑ってうなずいた。
「ふぅ……」
僕も一息つき、手ぬぐいで額の汗を拭った。陽が高くなるにつれて、照り返しが強くなってくる。けれど、不思議と嫌じゃなかった。
だって、みんなと一緒にいる。
そして、ここが僕の国になるかもしれないから。
僕のとなりでは、時宗丸が無言で地面に向き合っていた。去年までは母君にべったりだったのに、最近はなんだか顔つきが変わってきた。手つきも、去年のぎこちなさが嘘のようだ。
「……なあ、梵天丸。俺たち、本当に武士なんだよな?」
ふいに、時宗丸がぽつりと呟いた。
「草ばっかり抜いてると、忘れちまいそうだ」
その言葉に、僕は少し笑ってしまった。
「それは、虎哉さまに言ってみるかい? また“地を知らぬ者に、天は治せぬ”って扇子で叩かれるよ」
「……絶対叩かれるな。いや、たぶん叩かれながら説教される」
顔を見合わせて笑った。
でも、僕は虎哉さまの言葉を、心のどこかで信じている。
稲の一本、草の一本にまで、領地の未来が宿っている──そう教わった気がするから。
戦も政も、人の世も、すべてはこうした暮らしの土台に立っている。だから、泥に触れるのを恐れてはいけない。
風が吹いた。
遠くの山から、まだ雪を抱いた空気が香ってくる。米沢の山は深く、厳しく、美しい。
この山が、僕たちの背を押してくれる。
川のせせらぎが聞こえる。田のあぜ道を歩く鳥の声もする。
人が、山と水とともに生きている音だ。
「梵天丸さま、こっちの草、まだまだ残ってますよー!」
伊佐の明るい声が飛んできた。腰に手をあて、指差す方向には草のじゅうたんが残っている。
「うぅ……小夜、そこは任せたく……」
「ダメです。殿の器を持つ者なら、泥まみれになる覚悟くらい──」
「──わかった、やるよ!」
僕は笑いながらまた泥に指を突っ込んだ。
「ほら、時宗丸も!」
「……はいはい、俺も殿様修行ってやつか」
「そうとも! 将来、伊達を背負う者が、草一本抜けずしてどうする!」
時宗丸と顔を見合わせながら、僕たちは手を伸ばし、一本ずつ丁寧に草を抜いていった。
泥の冷たさと、指先に伝わる根の感触。
それは、確かに“生きている”証だった。
僕たちは今、草を抜いている。
だけどきっと、未来のための何かを耕している。
まだ五歳。
だけど、僕にはもう、背中を預ける仲間がいる。
この田んぼの一角から、僕の天下が始まっている──そんな気がした。