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『稲と学びと川音と──風は、甲斐より吹いてくる』

「腰を落とせぬ者に、苗は植えられぬぞ!」


虎哉宗乙さまの声が、田に響く。


──俺は今、泥まみれになっていた。


ついこのあいだまで書物と筆とに囲まれて、「武士たるもの、弓馬剣術と学問に通じるべし」と教わっていたのに、気づけば毎朝、草履を脱いで裸足で田んぼへ。

背を丸め、腰を折り、ひたすらに“植える”。田に苗を、額に汗を。


「おい、殿……背中が曲がっておるぞ、腰を入れろ」


横で、時宗丸が不器用に苗を握っていた。

彼もまた武士の家の子ながら、すっかり農民に化けていた。

その隣には、黙々と働く左衛門。言葉少なだが、実直で強い。彼の手つきは驚くほど早い。


俺たち三人は、今や“農の修行中”である。

虎哉さまの教えで、兵法や漢詩だけでなく、稲作の根本を体得せねばならぬのだという。


「……領地を治めるとは、農を治めることに等しい」

「土を知らずに田を治めるなど、田の神を怒らせるに等しい」


口癖のように、虎哉さまは言う。


最初は「それでも俺たちゃ武士だ」と反発もしたが、今では、こうして土に足を踏み入れて汗をかく日々にも、ある種の納得が生まれていた。


そのときだった。

ふと、田の向こう、農民たちの声が聞こえた。


「……おっかあ、今年は……川、持つかの……」

「雪解けが早かったで、谷川が膨れてきとる。前の年みたく……」

「堤が崩れりゃ、また田がやられるべ……」


泥だらけのまま、俺は顔を上げた。

見れば、田の向こうに流れる小川が、いつもより水量を増していた。

春の雪解け水が、山からどんどん流れてくる。土手も、やや水をかぶっているように見えた。


──そのとき。

脳裏に、ある言葉が閃いた。


信玄堤しんげんづつみ


甲斐の武田信玄が作らせたという、見事な川の治水工事──

かつて書物で目にした記述だけだが、堤に“余水路”を設け、川が暴れぬようにした巧妙な造りだという。


「……もし、それをこの地でも用いられれば……」


ぽつりと口にすると、隣で田植え中の時宗丸が顔を向ける。


「なにか、妙案でも?」


「いや、まだ案というほどではない……けれど」


俺は目を細めて小川の流れを見た。

豊かな米沢の土地。だがその豊かさは、川によってもたらされ、また川に奪われもする。

土を踏みしめてこそわかる。稲は、まことに水に生かされ、水に殺される。


──この川が暴れれば、村は一夜にして沈む。


「……甲斐の“信玄堤”が本物なら、見ておきたい。いや──誰かに、見せてほしい」


俺は決意した。


そして、その日の夕刻。

小屋に戻った俺は、布で泥を拭き取り、ひとりの男を呼んだ。


影清かげきよ、来てくれ」


柱の陰から、ひとりの忍が現れる。

黒ずくめだが、妙に陽気な顔立ちをしている。

この男は、俺付きの探索役。表では名を持たず、影の者として俺の周囲を動いていた。


「甲斐に行ってほしい。武田信玄が造らせたという“堤”の構造を見てきてくれ。できれば、図を描いて──どこがどう優れているのか、何が米沢と異なるのか、調べてほしい」


「承知しました。五日ほどいただければ」


「頼む。くれぐれも無理はするな」


「忍びが無理をせねば、誰がします?」


にやりと笑って、影清は小屋の隙間から姿を消した。


──そして、五日後。


影清は夜明け前に帰ってきた。

全身を泥で濡らしながらも、興奮を帯びた口調で語った。


「見てきました、若君。あれは、まさに“水を生かすための罠”でございます」


「……罠?」


「信玄堤は、堤を単に高く積むのではなく、“余水吐よすいばけ”という抜け道を設けておるのです。川があふれそうになると、そこから一部の水を逃がし、逆に堤全体を守る仕組み……堤の形状も、真っ直ぐではなく、湾曲させて水勢を分散させておりました」


「……なるほど……」


「また、信玄公は堤の周囲に“遊水地”──水を溜めてもよい土地を整備し、氾濫時にも川の力を吸収できるようにしております」


俺は思わず立ち上がった。


「まるで、軍の布陣のようだな……守るべき城を中央に置き、兵を左右に散らして圧を受け流す……」


影清は深くうなずき、そしてさらに口を開いた。


「もう一つ、報告がございます」


「……なんだ?」


「甲斐より、上洛の準備が進められているとの風聞が広がっております。どうやら信玄公、自ら兵を率いて京へ向かう意志を固めた模様。春のうちに甲府を発ち、信濃・美濃を抜ける構えとか……」


──俺は息を呑んだ。


「信玄が……上洛?」


それは、東国すべてを巻き込む大戦の兆しだった。

上洛とは、京を制すということ。天下に手を伸ばすということ。

俺たちが今、泥を踏んでいるこの田畑も──例外ではなく、戦の影に覆われるかもしれない。


俺はすぐに筆を取り、報告文をしたためた。


――父上、伊達輝宗殿


甲斐・武田信玄の造営した堤について、忍びにより調査いたしました。構造は以下の通り……


(中略)


──また、信玄公に関して、甲斐より上洛の風聞あり。備えを怠りなきよう、お願い申し上げます。


敬白

梵天丸


筆を置いたとき、夜が明け始めていた。

窓の外、田の向こうに朝日が差してくる。

その光は、まだぬかるんだ田の水面をきらきらと照らしていた。


「……水を制す者が、国を制す」


虎哉宗乙さまの言葉が、頭の中に蘇った。


俺は、この土地を守りたい。

それは学問や兵法より、ずっと心の底からの願いだった。


だからこそ、俺は学ぶのだ。

土を、稲を、水を。

そして──“国を治める”ということの、本当の意味を。

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