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『鎧では米は育たぬ──虎哉宗乙の稲作訓示』

「──んぇ?」


俺は思わず、口から間抜けな声を漏らしてしまった。


目の前に広がるのは、土。

さらに、畦道。

しかも、むわっとした匂い。泥の匂い。


「……あの、虎哉さま。これは、つまり、どういう……?」


「田である」


「それは見れば分かります!」


「分かるならよい」


俺の抗議を完全に無視して、虎哉宗乙さまは既に草鞋を脱いで、素足で田に入っていた。


いやいやいやいや、坊さんだぞ?

しかも偉い坊さんだぞ?


「……なぁ、殿。オレたち、武士じゃねぇのか?」


隣で、時宗丸が小声でぼやいた。


「左様よ。刀を持つ者が、草取りと水加減とは……いささか、腑に落ちぬ」


左衛門も、眉をひそめながら口を尖らせていた。


当然である。


なぜなら、今日の“修行”とやらの課題は──


「稲作」


なのである。


「稲を植え、育て、収穫せよ。米は戦の命であり、領主の根幹である」


──虎哉さまはそう仰った。

だが、俺は正直、混乱していた。


だって、俺は──


「米は農民が作るものであって、我ら武士は、それを治める者で……」


そう言いかけた俺の言葉を、虎哉さまはぴたりと止めた。


「そう。お主らは、いずれ治める者になる。では問う」


その目は、いつもの優しさと違い、鋭さがあった。


「稲を知らぬ者が、田を拓けと命じたとしよう。それは、正しき政か?」


「……っ」


「水を引く苦労を知らぬ者が、年貢を絞ったとしよう。それは、民を思う心か?」


「…………」


「草を抜く痛みを知らずに、収穫を語れるか。口だけで民の腹を満たせるか」


俺たち三人、声を失っていた。


虎哉さまは泥に足を沈めたまま、俺らに背を向けて、空を見上げた。


「武は稲より始まり、心は土より育つ。お主らが真の“武士”となるためには、まずこの地に、膝をつけよ」


風が吹いていた。春の、芽吹きの匂いが混ざる風だった。


……負けた。完全に。


「……よし」


俺は草履を脱いで、ざぶりと泥の中に足を入れた。


「い、いくのか? 殿……」


「殿が入るなら、俺も入るしかねぇな……!」


時宗丸も左衛門も、続いて田に足を踏み入れる。


「冷たっ……!」


「ぬるいようで、冷たい……これはなんとも言えぬ感触……!」


「ぬ、ぬるぬるする……この感覚、まさか忍びの訓練にも通ず……?」


──それは違うと思う。


「お主ら、これは“心を耕す修行”と思え」


そう言って虎哉さまは、くわを渡してきた。


「今日から三十日、お主らの心根と共に、稲もまた育つ」


……その瞬間、俺はようやく理解した。


泥に触れるということは、ただ“汚れる”ことではない。

命のもとに、触れること。


それを知らずして、俺が民の上に立とうだなんて──おこがましいにも程がある。


「殿、あんた……なんか今日はやけに真面目だな」


「うむ……だが、米を食う権利があるなら、育てる義務もあるのだ……!」


「それ、誰の言葉?」


「俺だ!!」


──その日、俺たちはひたすら泥にまみれた。


黒ギャル忍者たちは相変わらず麦わら笠をかぶって笑っていたし、喜多は遠巻きに「……殿、足元ばかり見ていてはいけませぬ」とか言っていたが──


それでも俺は、なぜか誇らしかった。


たとえ、泥だらけの俺の顔に、米粒がついていたとしても。

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