『時宗丸、涙の夜──それでも俺たちは、兄弟(とも)になる』
寺の裏手にある梅の木が、ようやく白い花を咲かせはじめた日だった。
春の風はやさしいはずなのに、どこかその背中に冷たさを感じる。
そんな空気を、俺はあいつの後ろ姿に見ていた。
「……また、戻ってこねぇのかな」
と、ぽつりと呟いたのは時宗丸だった。
虎哉さまの授業が終わって、それぞれが寝床に散ったあとの夜──
俺は井戸端に水を汲みに出たところで、ひとり石段に腰かける時宗丸を見つけたのだ。
「どうした、眠れぬのか」
と声をかけると、時宗丸は肩をすくめた。
その目が、どこか潤んでいたのを、俺は見逃さなかった。
「……別に。ちょっと風に当たってただけだよ、殿」
「ふうん」
けれど、こいつのこういう嘘はすぐにわかる。
時宗丸は強い。剣も体も俺よりずっと出来る。でも──こういうとき、強がる声だけは震える。
「母上がさ、言ってたんだ。『おまえは立派な侍になるのだぞ』って。だから来たのに……」
ぽつぽつと、時宗丸は語りだした。
妹が、まだ歩きはじめたばかりで、いつも「にいに」と笑っていたこと。
父上は無口だけど、背中で何かを教えてくれる人だったこと。
そして──夜になると、ふと耳に聞こえるような気がするという、家の戸を叩く音。
「ここに来てから……誰も、あいつらのこと、呼ばねぇんだ」
そう言ったとき、俺は、ああ、この男は“寂しい”んだと知った。
「時宗丸。おまえが寂しいって言うの、初めて聞いたぞ」
「言ってねぇし!」
「言った。今、確かに言った。あたまに“べつに”がついてただけでな」
「うるせぇよ、梵天……!」
時宗丸が顔をそむける。その肩が、かすかに震えた。
たぶん、あいつは泣いてた。だけど、それを隠すために俺を睨んだのだ。
だから、俺はあえて笑ってやった。
「じゃあさ。俺のこと“兄者”って呼んでみろ。そしたら、少しは寂しくなくなるかもな」
「……ふざけんなよ。殿のくせに」
「ふざけておらぬぞ。俺が兄者で、おまえが弟。左衛門も入れて三人兄弟だ。どうだ、良きではないか?」
「くだらねぇ……でも、まあ……」
と、時宗丸がつぶやいたそのとき──
「ふたりとも、なにしてんの? もう布団敷いたのに〜」
と、くノ一の伊佐殿がひょっこり顔を出してきた。
夜目にもわかる色気と明るさに、俺はまたも鼻の下を伸ばし──
「……兄者、おまえの顔、緩みすぎ」
と時宗丸に突っ込まれた。
「ち、ちがうぞ!? これは、その、だなっ……」
「うわ、ほんとに伸びてるし……」
「兄者と呼ぶのをやめるか、この場で」
「やめませんッ!」
笑いながら、俺たちは寺の縁側を戻った。
夜はまだ深く、梅の香りはかすかだったけれど、
あのとき確かに、俺たちは“家族”になった気がしたのだ。