『氷と火の母』
雪の気配が城の瓦に薄く張りついた朝、見張り番が「女禍通用、北の口より御迎え」と合図した。女の行列――母・義が来るということだ。病がようやく下がり、額の汗が水に変わったばかり。看病奉行を自称する愛姫に「今日は八分の座」と釘を刺され、湯気の立つ粥を半分ほど胃に落としたところだった。
襖が開き、香の筋がすっと走る。母は黒の小袖に白い羽織、雪を払った袖口の動きまで研ぎ澄まされている。従う侍女と、国分政重の使番が距離をとって控えた。母は座する前に一瞥で部屋を掃き、口角を少しだけ上げる。褒める前触れと見せかけて、刃を抜く目つきだ。
「……藤次郎。いや、政宗」
「御機嫌よう、母上。雪にも負けぬお美しさで」
「お世辞がうまくなったこと」
母はため息とともに扇を払った。扇の風は冷たいが、内側には微かな火を含んでいる。いつものことだ、と喉の奥で苦笑しながら背筋を正す。
「病だと聞いた。年賀の直後に倒れるとは、見栄えがよくないね」
「見栄えは悪うございますが、腹の内は温かく」
「温かい腹は、伊達の座では甘さだよ」
切っ先が近い。言い返す言葉はいくつも浮かぶが、ひとつも軽々しく乗せてはならない。母の言は、表の刃であり、奥の秤でもある。秤にのせるのは俺の息だ。乱せば、軽い。
「体の弱い藤次郎には、やはり当主の重責は重いのではないかね」
ゆっくり、はっきり。廊下にまで届くように。母はわざとだ。城中に「新当主は病」と刻ませ、同時に「新当主は母に問われる場面でどう答えるか」を見せたいのだ。毒にも薬にもなる言葉を、母はいつも最も効果のある刻に置く。
「重うございます」
俺は正面から受けた。母の眉がわずかに動く。
「けれど、軽い重責はございません。重いから、皆で持つと決めました。病の間は、片倉が印を割り、遠藤が番を替え、大内が噂を薄く流し、鬼庭は槍を磨く。愛は――看病奉行を名乗り、殿の機嫌まで討ち取ります」
襖の陰で愛姫が小さくむせる音がした。母の視線がそちらへほんの少しだけ滑り、すぐ戻る。口元に薄笑い。
「甘えるのが早い」
「頼るのが早い、に言い換えてくだされば」
「言い換えは自分でするものだよ」
母は扇をとじ、膝の上で指を組む。指の節までが美しい。若い頃から世の視線を浴びてきた指だ。俺はその指が、かつて熱に浮かされた幼い俺の額に置かれた温度を思い出す。氷のように冷たく、火のように確かだった。
「藤次郎、お前は昔から熱を出すと、先のことばかり喋った」
「……覚えがございません」
「覚えなくていい。覚えているのは親の役だよ。先を言う子は、今に躓きやすい。躓けば家が転ぶ。転ばぬために、親は石を見る。子は空を見る。空だけ見て歩けば、溝にはまる」
説教は始まった。だが、今日は刃を抜きっぱなしにはしないはずだ。母は扇を膝で二度たたき、俺の顔の色を確かめる。
「上杉はどうだい」
「衰えます。家の中が雪に負けます」
「北条は」
「盟は守ります。兵糧は出し、兵は顔だけ。顔は寒さに強い」
「蘆名は」
「身構えます。こちらは腹を鳴らさず、柵をきつく」
「佐竹は」
「利に手を伸ばし、手を引くのが早い。手首を見ておきます」
母の口角が、わずかに上がった。問いは次から次へと飛ぶ。俺はそれを拾い、短く返す。病後の頭は遅いが、遅いからこそ長くは喋らない。やがて母は問うのをやめ、静かに告げた。
「……言葉は増えたが、骨は細くない」
誉め言葉だ。母の辞書で、最大級の。俺は頭を下げかけ、愛姫に脇腹をつつかれたのが分かった。「まだ八分の座」と袖口が訴えている。咳に化けそうな笑いを堪える。
母はふいに顔をそむけ、障子越しの庭を見た。霜の上を、雀が三度跳ねた。
「病は、弱さではない。弱さに逃げるのが、弱さだ」
「はい」
「お前は逃げていない」
「はい」
「だが、逃げない顔ばかり見せると、皆が頼るのをやめる。頼らせなさい。家は、一人の肩に置けば折れる。何人もの指で支えれば、しなって戻る」
「……心得ます」
母はようやく座を楽にし、帯の前をほんの少し指で整える。その仕草は、俺の帯を自分で締め直しているようにも見えた。言葉は厳しく、手はいつも細やかだ。
「それにしても」
母は今度こそ毒をひと匙。
「病み上がりの顔のまま座すのは、見栄えが悪いね。台所に鏡はないのかい」
「ございません。愛の目が鏡で」
「曇りやすそうな鏡だこと」
襖の陰で、看病奉行が真っ赤になっている気配がする。殺気と照れの匂いが混ざって、湯気みたいに甘い。母は鼻で笑い、扇で軽く空を払った。
「それから、あの国分の倅。政重に“いちいち口を挟むな”と伝えなさい。挟むなら、味になる塩を持って来い、とね」
「承りました」
「最上へ嫁を寄越せと言う話も、しばらくは無視でよい。愛の器量は見た。竹の紋は、竹の女に持たせなさい」
母の言は矛盾して見えて、一本の糸でつながっている。家を太らせる糸だ。俺は腹の奥の熱が、病の名残ではない温かさに置き換わるのを感じた。
「……母上」
「何だい」
「来てくださり、かたじけのう」
「当主の母が、子の病に来るのは当たり前だよ。来たくて来たとでも思うのかい」
言うが早いか、母は懐から小さな包みを取り出した。白い布に包まれ、紐で結ばれている。結び目は、小さく、目立たず、ほどけない。
「白湯に溶いて飲みなさい。山の根生姜と、陸奥の蜂蜜。甘くしてある。苦い顔をするなよ。政は苦い。薬まで苦いと、舌が拗ねる」
包みを受け取る掌が、ほんの少し汗ばむ。俺は深く頭を垂れた。顔を上げる前に、母は立ち上がっていた。
「長居はせぬ。病人の枕辺に長居するのは、よい振る舞いではない。――それとも、“弱い当主は母に縋る”と吹聴させたいのか」
「その必要はございません。母上が来れば、皆が察します」
「そうさ」
母は踵を返し、二歩進んでから、ふと思い出したように振り返った。
「正月の鍋、評判よ。あんこうは、政の味だね」
「骨が多く、捨てるところがなく、肝が要。……母上に教わりました」
「生意気な子だよ」
最後の一刺しは柔らかかった。母はさっと去る。廊下の足音が遠ざかるにつれ、部屋の空気がわずかに緩む。愛姫が襖を少しだけ開け、安堵の息を吐いた。
「殿、よく受け止められました」
「受け止めたふりだ。……内臓で受け止めている」
「では、薬で内臓を温めましょう」
包みを開けると、指先に生姜の匂いがつく。蜂蜜の色が柔らかい。盃の白湯に溶き、すすぐ。甘さの向こうで、舌がきりりと目覚める。
「甘いな」
「甘いのが良いでしょう。今日は叱られましたから」
「叱られて、甘やかされた」
「それが母、というものかもしれません」
愛姫の声が少し震い、すぐに固まる。彼女の目は強い。看病奉行は湯気のなかで帳面を開き、次の段取りを挟み込んでくる。
「殿。本日の御用、三つのみ。ひとつ、白河より『戸車、凍り付かず』。ふたつ、栃尾より『米、二度目、無事到来』。みっつ、城下の子ら、『結び、ほどけず』」
「ほどけないのが、良い」
「はい。ほどけない結びを、わたしたちは増やします」
頷いて、盃を置く。母の残した匂いがまだ薄く漂う。香の筋と、生姜の筋と、炭の筋。三つの筋が一本の線になって、胸の奥へ流れ込む。俺は軍扇の骨を軽く撫で、印判の冷たさで額の熱を試した。熱は引いている。代わりに、別の熱がある。母の言で火がついた熱だ。
「……小十郎」
名を呼ぶと、襖の向こうから即座に返事。彼は音もなく入って、膝をつく。
「母上の御前での言、廊下で聞いた者は」
「数えるほど。皆、耳に綿を詰めておりました」
「綿は寒風を防ぐ。だが、噂は薄く流せ。“母、来たり、去る。新当主、揺らがず”――それで十分だ」
「承知」
「遠藤」
「ここに」
「番を一筋増やせ。病明けの城は、外から見て弱い。弱いと見せず、強がらず、息を揃える」
「心得ました」
「定綱」
「おり申す」
「市に生姜を増やせ。蜂蜜は量を見て。城下の喉を先に守る」
「かしこまりました」
「鬼庭」
廊下で「おう」と低い声。槍の金具がひとつ鳴る。
「穂先は今は寝かせろ。雪の上で跳ねる時に、まっすぐ立つように」
「承った」
短い命をいくつか出すと、体の中の熱が静かに均された。愛姫が盃を片付け、火鉢に炭を足す。ゆらぐ火の色が、母の扇の裏に似て見えた。
夜、机に向かい、今日のことを短く記す。母来る。刃と秤。氷と火。病は弱さに非ず。逃げねば弱くない。頼らせよ。――最後に一行、誰にも見せない文を置く。
――母上。わたしは“まっすぐ”でいる。けれど、皆で“しなる”。折れぬために。
墨を置くと、胸の奥の結び目が確かに締まった。小夜が残した結び目と、伊佐が結び直した結び目と、母がそっと置いていった結び目。そのどれもが、小さく、目立たず、ほどけない。
俺は軍扇をたたみ、印判を掌にのせ、灯をひとつ落とした。雪はまだ降らない。降ってもよい。降らなくてもよい。どちらでも、城を温める。母の小言は痛い。だが、痛みがあるうちは、俺は鈍らない。
――伊達の座は重い。だからこそ、皆で持つ。俺の肩は、もう逃げない。




