『寒椿のあんこう鍋』
天正七年の正月、朝の空気が頬を刺した。中村城の大手門には注連縄、松と竹。城下の子らの笑い声が風に混じる。俺は上座の畳を少し下がって座し、年賀の挨拶を受ける支度を整えた。父上の書状はすでに到来――「年賀は中村でおこなえ。政宗、我が名の代わりに座して皆を迎えよ」。墨は乾いているが、言葉は温かい。
太鼓が一打。最初に一門、ついで譜代。片倉小十郎が進み出て、静かに頭を下げる。
「新春を寿ぎ申し上げます。今年も殿の御心、先に読みすぎぬよう、一拍おいて務めます」
「それでいい。急がせるのは俺の役だ」
遠藤基信は落ち着いた声で、「南の口、北の坂、雪の下でも道は開けます」と短く添え、鬼庭右衛門は槍柄を撫でて「槍は磨いてあります。出よと言われれば出ます、下げよと言われれば千人でも下げます」と笑った。鬼庭左月は袖の中の拳に力をこめ、「今年こそ一度は穂先を上げたい」と正直に言ったので、場に小さな笑いが生まれた。
続いて使者。三春の舅上・田村清顕殿の使いは白と緑の細い水引を掲げ、「三春は今年も変わらず伊達に寄る」と起請を読み上げ、蘆名からは「当面、互いに攻め合わず」の再確認。小田原からは北条の使僧が細巻を置いて、「景虎殿への兵糧の義、かたじけない」と礼を述べた。白河城代に任じた伊達成実(藤五郎)からは書状。「城は息をし始めました。市は三度、寺へは米、孤子には粥」――字が若く、行がまっすぐだ。
そして石川昭光。広間の端で深く額ずき、震えを押しとどめるような声で言った。
「先年の白川の狼藉、わが家の恥は、すべて白河の土に埋めてまいりました。今年あらためて、伊達家に命運を預けたく」
「もうよい。今年は働きで語れ。言葉より動きだ」
昭光は顔を上げず、深々と礼を重ねた。その姿に、広間の空気が少しだけ和らぐのが分かった。俺たちは前へ進む。語れば過去に戻る。動けば未来へ行く。
年始の口上はつづくが、堅い挨拶ばかりでは寒さが身に染みる。俺は手を打ち、次の段取りへ移した。
「――皆、座を移そう。今日は松川浦のあんこう鍋で迎える」
障子が引かれ、香りが流れ込んだ。潮、味噌、柚子の皮。広間の隣にしつらえた大鍋がぐつぐつ鳴り、湯気が白く立つ。松川浦から朝まだきに上がった鮟鱇だ。吊るして切る職人の手際を見せたいと頼んだところ、港の古株が快く引き受けてくれた。
「殿の前で恐れながら、『吊るし切り』にござる」
職人は鉤に魚体を掛け、ためらいなく包丁を入れる。皮がすべり、身がほどけ、骨が現れ、七つ道具が整然と盆に並ぶ。列座した家臣たちが思わず息を呑む。鬼庭左月が膝を乗り出しかけて、喜多に袖を掴まれた。
「左月殿、まだ酒は回っておりませぬ!」
「いや、酒でなくともこれだけで酔える。見事な手並みよ」
場が少し緩んだところで、片倉が静かに一礼して鍋奉行を買って出る。
「肝は溶きすぎず、味噌は二度に分けて。葱は遅らせ、最後の香りに柚子」
「小十郎、きっちりだな」
「殿の客席で鍋を乱せば、国も乱れますゆえ」
囲炉裏の火が赤く、味噌がふわりと香る。肝のコクが出汁に溶け、身は白くふくれる。初椀を俺が受け、まず口に運ぶ。熱さに舌が驚き、すぐに喜びへ変わる。思わず頬がゆるむ。
「――うまい。松川浦の働きが、そのまま椀に入っている」
合図のように、皆が箸を取った。たちまち顔に赤みが差す。普段は口の重い遠藤でさえ、「これは走る前の足に効きます」と二椀目を受けた。鬼庭右衛門は「兵にこの汁を飲ませれば、夜番も笑います」と真顔で言い、左月は「穂先を下げる日も、これがあれば堪えられる」と肩で笑った。愛姫は女中と息を合わせ、椀が切れないように静かに配る。脇で伊佐が結び目を直し、転びかけた俵をさっと支え、誰にも気づかれぬように消える。影の仕事が、場の温度を保っていた。
「殿、港の話を」
片倉に促され、俺は皆の目が鍋で温まったのを見計らって声を出した。
「松川浦では小早船が三、動いている。冬の間も、潮と風を読む者が増えた。倉は板を厚くし、塩と布、それに鍋と釘を年内に倍――いや、三分増やす。安宅船は小田原との往復を止めない。海の道を止めれば、陸の道も細くなる」
「火薬と鉛は」
遠藤が問う。俺は頷く。
「鉛は荷に混ぜて上げる。火薬は湿りを嫌う。包みは油紙を二重にし、白河で改める。銃組は三十のまま。撃つ稽古より、乾かす稽古を増やす。連弩は十機追加で作らせた。狭い道の押し返しに使う」
「年貢は」
大内定綱が袖口だけで笑い、「今年のうちに村々へ『二分軽く』の知らせが回りました」と口にする。俺は続けた。
「そのぶん、荒れ田を起こす。鍬は倉から貸す。返しは札でいい。借りた、返したが見えれば、人は迷わない」
あんこうの身が減るにつれ、場に言葉がほどよく満ちていく。口上だけでは信が薄いが、同じ鍋を囲めば腹の底に落ちる。食を共にできる間柄かどうかは、刀より正直に国を映す。
「殿」
石川昭光が椀を置き、膝を正した。顔の強張りが、湯気で少しほどけている。
「松川浦の恩は白河まで届きます。わたくしも白河の蔵を整え、伊達のやり方をそのまま写します」
「頼む。――写すところまでなら、誰でもできる。写してから、石川のやり方を足せ。白河は“伊達の城”である前に、“お前の顔”で持つのが早い」
昭光は深く頭を下げ、「励みます」と短く答えた。彼の声に、わずかな芯が戻ったのを聞き取る。人は、食べて、少し笑って、それから重い話に耐えられる。
鍋が終盤にさしかかるころ、愛姫が小さな椀を俺に差し出した。白い汁に薄く伸ばした肝、刻んだ葱、柚子の香り。
「殿、おかわりです。今日は“勝ち栗”のかわりに“勝ち肝”で」
「縁起を担ぐのがうまいな」
「城中が寒さに勝ちますように」
椀を受け取り、静かに飲み干す。胸の奥まで温かくなる。ふっと、小夜のことが胸をかすめた。あの人も、台所の隙をよく見ていた。結び目の弱いところをすぐ指で押さえ、誰にも気づかせない。今は伊佐がその役を継いでいる。俺は椀を置き、わずかに目を閉じた。温かさは、悲しみを消さない。けれど、悲しみが凍らないようにしてくれる。
最後の椀が下がり、俺は立ち上がった。
「皆、今年の伊達は“腹を鳴らさない”。内は粥、外は道。盟は違えず、家は薄くせず。無理はしない。だが、怠けない。雪のあいだに手を入れ、雪のあとに一歩出る。そのための一年だ」
片倉が「承知」と短く返し、遠藤が図を抱えて下がり、右衛門が槍の穂金を確かめ、左月が名残惜しそうに鍋を見て、喜多に叱られて笑いが生まれた。石川は広間の端で深く礼し、北条の使者は「海の香り、相州にも届きました」と微笑んだ。年賀の儀は堅く、鍋は柔らかく。二つで一つの器量だ。
見送りのあと、広間に静けさが戻る。障子の向こう、台所の水音が聞こえる。愛姫がそっと側に来て、今日の段取りの抜けを三つ挙げ、次の市の日取りを一つ提案した。俺はすべてを覚え、すべてを任せ、最後に言った。
「よく働いた。……中村は温かい城になってきた」
「はい。殿が温かいからです」
照れ臭い言葉だが、嘘ではないと思えた。港からの荷、山からの薪、人の声、鍋の湯気――それらが同じ方向を向くと、城は自然に温かくなる。温かい城は、冷たい刃を持っていても、冷たくはならない。
夜、書院で筆を取り、今日の出入りを書きつける。贈り物、返礼、条目、鍋の量。最後に短く記す。
――松川浦のあんこう、皆の腹に届く。明日も同じように届くよう、倉を厚く。道を広く。人を減らさず。
墨を置き、灯を少し落とす。外では霜が降りかけている。明日は早く凍るだろう。凍るなら、上から砂を撒く。凍らなければ、足を早める。やることは変わらない。俺は軍扇をたたみ、印判の冷たさを掌で受けて、目を閉じた。
――年のはじめの一日。腹が鳴らなければ、どんな策も立つ。腹が鳴っていれば、どんな策も倒れる。今日の鍋は、そのための最初の一椀だった。