『湯けむりの宣言』
十一月の風は骨の近くまで冷える。米沢の山あいへ入るほど、空の色が青く硬くなっていった。湯治場の屋根からは白い湯けむりがひっきりなしに立ちのぼり、冬の手前にある人の気配をやわらげている。護衛は最小に絞った。中村を空けるわけにいかないのと、ここには「仮病で湯治中」の父上がいるからだ。目立ちすぎてはいけない。けれど、目立たなすぎてもいけない。そんな塩梅で、湯宿の格子戸をくぐる。
案内の女中がすべるように畳を進み、襖が二度だけ軽く鳴った。中に入ると、父・伊達輝宗は湯上がりの単衣に身を包み、いつものように背筋を伸ばしていた。頬はほんのり赤く、額には湯のしずくが一つ。手元には湯飲みと、干菓子が二つ。どう見ても元気である。
「よく来たな、藤次郎」
「はは……。ご体調のほど、いかがに」
「病は病よ。仮とはいえ、病は病じゃ」
父上は肩をすくめ、目だけで笑った。茶化しながらも、目の底に硬い光がある。俺は正座し、背筋を正す。湯の匂いの向こうに、木の香がした。湯治場に似合わないほど、話の空気は乾いている。
「上杉のことよ」
切りだしは短い。俺も短く頷く。
「跡目で衰える。雪の前に、家の骨が軋みます」
「うむ。謙信ほどの求心は、もはや戻らぬな」
「はい。もう謙信公のような求心力はございません」
父上は湯飲みを傾け、わずかな間を置いて言葉を継いだ。
「跡目争いは家を弱らせる――明白な道理じゃ。ゆえにこそ、時を選ぶ。……今回、儂は“仮病”ではあるが病にある。家中の者どもも薄々、『よい機会では』と感じておろう」
湯気がふっと揺れた。俺は膝のうえで掌を合わせ、息を整える。父上の「時を選ぶ」は、いつだって容赦がない。だが、その容赦のなさが、戦より深く家を守ってきた。
「このまま隠居する」
言い切られた。湯宿の軽い障子の骨が、言葉の重みでわずかに鳴った気がした。
「伊達の跡目は――藤次郎政宗、今日よりそのほうじゃ」
胸の奥に落ちたものが、すぐに重みを持ち始める。俺は深く頭を垂れた。湯の匂いが遠のき、畳の感触だけがやけにはっきりしている。
「はっ」
「翌年の年賀は、中村城でいたせ。諸式は小十郎に預けよ。家中帳と判形は使いの手にて明日渡す。儂は“湯治の身”ゆえ、米沢へ引き取る。表には出ぬ。だが目は閉じぬ」
「承りました」
ふっと、体の重心が変わるのが分かった。これまでも命を出してきた。だが、今日からは俺の命が“伊達”の命になる。俺の息の乱れは、家の息の乱れに直結する。湯気の向こうで、父上がうなずいた。
「よい顔をしておる」
「重さに顔が追いついているだけです」
「それでよい。重さに顔が負けるな。……さて、政宗」
父上は上体をわずかに前へ。湯飲みの影が畳に落ちる。
「上杉は衰える。蘆名はそれを見て身構える。佐竹は利を嗅ぎ、最上は風を読みすぎる癖がある。北条は景虎につき、織田は天下を見ている。――伊達は、どこを見る」
目に見えない障子が一枚、俺の前に立ちはだかった気がした。答えは一つではない。だが、いま言葉にしておかねば、足が揺れる。俺は口を開く。
「南は粥、北は柵。まずは家の内を太らせます。白河は成実に任せ、磐城は右衛門殿と線で結び、三春とは毎日文を。商いの旗は下ろさず、海の便を絶やしません。山は雪、ならば海で息をする。大軍は出さず、兵糧は出します。盟は違えず、腹は冷やさず」
父上の目尻が、わずかに緩んだ。
「うむ。政宗の言は長くなったが、骨はぶれておらぬ」
「長くなりましたか」
「若い者は言葉が多い。年寄りは骨しか言わぬ。それで均せ」
小さな笑いが漏れ、湯宿らしい柔らかさが戻る。父上は隣の小箱を引いて、布に包まれた二つの品を押し出した。ひとつは黒塗の軍扇。もうひとつは古い印判である。
「軍扇は“すぐれ”の扇骨。印判は古く、欠けもあるが家の流れを示す。どれほど新しいものを持っても、古いものが最後に家を繋ぐ。持って行け」
「有難く」
軍扇は思ったより軽く、印判は思ったより冷たい。二つの重さの違いが、今の俺にはよく分かる。父上は湯飲みを置き、少しだけ目を細めた。
「小夜のことは、聞いておる」
喉の奥が勝手に固くなった。父上は言葉を足さない。ただ、目で「それも家の中に置け」と告げる。俺は首を縦に振ることしかできなかった。
「……置きます」
「好し。置いたうえで、進め。置けぬ者に、家は持てぬ。置きすぎる者に、家は動かぬ。お前は……ちょうどよい」
言われて、笑うしかなかった。父上の褒め方は、いつも少しだけ意地が悪い。けれど、その「ちょうどよい」の一言で、背中の筋がほどけたのも事実だ。
湯宿の外で、風が一段冷たくなった。雪はまだ降らない。だが、降る用意はもうできている。父上は湯治の帳に自ら筆を入れ、さらさらと「隠居」の二文字を書いた。墨の香が新しい。湯気と混じり、鼻の奥に残る。
「政宗」
「はい」
「年賀の式、見事にやってみよ。家臣ども、舅上、縁者、そして他国からの使い……皆に“伊達の新しい柱”を見せるのだ。派手にするな。乱れず、足りず、崩れず――その三つが揃えば、派手より強い」
「はっ、承りました」
「それから、あの若造――成実だな。白河で“足場の面白さ”を覚えさせよ。走らせず、守らせ、守る中に走らせる。あれは伸びる」
「伸ばします」
「小十郎は、言わずともお前の次の言葉を用意しておる。言う前に察していたら、わざと一拍ずらせ。家は、ずれのあるほうが倒れぬ」
父上の指示は細部に宿る。湯宿の天井板に節が二つ並んでいるのが見えた。節の間にある柔らかい木こそ、梁を受けている。
「……それと、最後に一つ」
父上の声がわずかに低くなる。湯気の向こうで、目が真っ直ぐに俺を射た。
「勝ち急ぐな。お前は“先”を知っているような顔をする。知っていようがいまいが、家は“今”でしか動かぬ。今をはずすな。はずせば、先はただの酔い話じゃ」
心の中のどこかを、正確に蹴られた気がした。俺は深く息を吸い、はっきり答える。
「肝に銘じます」
父上は満足げにうなずき、湯飲みをひと口。湯の香がまた流れた。
短い雑談ののち、立ち上がる。去り際、父上が小さく手を挙げた。
「風邪をひくな。中村は、お前が温める城だ」
「温めます。湯気のいらぬほどに」
「はは、よく言う」
湯宿を出ると、空の色がまた一段深くなっていた。山肌にかかる雲の縁が千切れ、白い粒が一つ、二つと舞う。まだ雪とは呼べない。けれど、今年最初の冷たい合図だ。俺は懐の軍扇と印判を確かめ、馬へ手をかける。
中村へ戻る道は、来た時より短く感じた。帰る先が、はっきり形を持ったからだ。城門が見える頃には、雪の粒は消えていた。代わりに、土の匂いが強くなっている。城の台所からは湯の音、鍛冶小屋からは軽い槌の音。門の上では見張りが合図の旗を巻き、下では女中が桶を運び、子どもが縄を引く。いつもの中村城。けれど、今日からは“当主の城”だ。
広間に入ると、片倉小十郎、遠藤基信、大内定綱、鬼庭右衛門より使い、そして愛姫がそろっていた。誰も驚かない。父上が時を読んでいることを、家中は皆、薄々知っていたのだろう。小十郎が一歩進み、頭を下げる。
「お帰りなさいませ、――殿」
その呼びかけは、俺の名ではなく家の名を呼んでいた。俺は頷き、手短に告げる。
「父上より隠居の達し。伊達の名、今日よりこの肩にある。年賀は中村で行う。諸式は小十郎、段取りは皆で。――まずは内へ。腹を鳴らす者を減らせ。外へは、雪の前の米と塩。盟は違えず、家は薄くせず」
「承知」
声が揃い、広間に落ちる。愛姫が一歩進み、いつもと変わらぬ調子で言う。
「殿。お疲れでしょう。粥を用意してございます」
「いただく」
匙を取り、口に運ぶ。味がはっきり分かる。ここが俺の城で、俺の家で、俺の台所だ。湯気はまっすぐ上がり、天井へ消えていく。俺は匙を置き、軍扇をそっと広げた。軽い。だが、軽さにふさわしい重ね方がある。印判は冷たい。だが、冷たさにふさわしい温め方がある。
「――行くぞ」
誰にともなく言って立つと、皆の足が自然に動いた。年の変わり目までにやることは山ほどある。年が変わっても、また山ほどある。よく知っている山だ。だが、今日は見え方が違う。湯けむりの向こうで告げられた言葉が、景色の輪郭をはっきりさせたのだ。
俺は中庭に出て、空を見上げた。降るか、降らぬか。どちらでもよい。降れば屋根に落ちる音が増える。降らなければ、人の足音が増える。どちらにせよ、この城は動く。――伊達家当主、政宗。名を胸の内で一度だけ名乗り直し、俺は最初の命を出しに、広間へ戻った。




