『体裁を守る手、家を守る心』
十月の風は、朝だけ少し刺さる。中村城の石垣が乾いて、影がくっきり伸びる。俺は書院に座して、薄墨で小夜の名を書いた木札を指でなぞった。四十九日までは机の端に置いておくと決めた。手を止めると胸が沈むから、手を止めない。書付、印、配り物、修繕の目録。湯の音、槍の手入れの金属音、台所の包丁の軽い音。城は生きている。なら、俺も動く。
「相州・北条氏政公の使者にござる」
報せ通り、使者は朝のうちに来た。衣は簡素だが、目は鋭い。上座を辞退し、一枚膝を寄せて口上を述べる。
「越後の景虎様、押されておられる。御同盟の誼にて、伊達殿、兵を出していただきたい」
来たか。俺は一拍、呼吸をおさめてから返した。
「盟は違えぬ。だが、いま我が家中は、立て続けの火消しを終えたばかりだ。須賀川、白河――城を抑え、領内を鎮めるために、人も米も動かした。大軍は出せぬ」
使者の眉がわずかに動く。続けて、こちらの手を出す。
「兵ではなく、米と塩と鉛なら出せる。実元叔父上の隊を先頭に、栃尾城の本庄秀綱殿へ兵糧を送る。峠は我らが責任で越えさせる。――それで、盟の顔は立てられぬか」
「兵糧のみ、にございますか」
「いまは、だ。冬の手前だぞ。兵を出して途中で凍えさせれば、盟も家も傷む。兵糧なら、誰の腹にも嘘はつかぬ」
使者は口をつぐみ、やがて小さくうなずいた。「量は」
「米千石、塩三百俵、鉛三百貫。白河で荷を改め、置賜経由で峠を詰める。黒脛巾が道の目を拾う。栃尾まで一息で届かぬなら、受けの蔵まで出てもらう。そこまでの責は伊達が取る」
数字を出すと、空気が落ち着く。嘘のつけないものは、数字と空腹だ。さらに一枚足す。
「火縄の粉も分けよう。紙に包んだ束、百。湿りを避ける包みはこっちのやり方だ、役に立つ。――これ以上は、家の骨が鳴る」
「……承知つかまつる。氏政公には『盟、違えず。兵糧を以て景虎殿を助ける』と申し伝えまする」
「そうしてくれ」
使者が退くと、広間の空気が少し温くなった。片倉小十郎が帳面を抱えて膝を進める。
「実元様には先刻より使いを。荷駄の編成、白河で仕切り直し、置賜で山の人足を拾う段取りに」
「峠の手前に臨時の蔵を作れ。崖の風を避けて南向き。板は厚く、鍵は二つ。鍵を持つ者は“片倉”と“実元”の名で一人ずつ。……銃組は付けるな。槍と弓だけ。戦を始めるための荷ではない、届けるための荷だ」
「承る」
遠藤基信は別の紙を広げ、細い点を道に打っていく。「退く筋は三本。人だけ通れる細道と、馬が通れる坂筋は分けます。橋板は小刻みに運び、渡ったそばから外す」
「それでいこう」
定綱は袖の中で笑いを消し、「会津の市には“伊達が峠へ米を上げる”とだけ薄く流しまする。深くすれば、耳の早い者が騒ぎます」
「薄く、早く、遠く。――頼む」
黒脛巾の頭目が柱の影で一度だけ頷いた。山の道は奴らの得物だ。雪の前に、目だけでも一段上げておきたい。
帳面が閉じ、皆が散っていく。残った静けさのなかで、胸の底に鈍い痛みが戻ってくる。小夜が膝の上からすっと消えた日から、空気の軽い刻に、決まって穴が開く。そこを愛姫が見逃すわけがない。
「殿」
襖がわずかに開き、香の薄い匂いが入ってくる。愛姫は湯気の立つ椀を置き、座を詰めた。
「今日は味噌を少し強くしました。峠の話を聞いていたら、体が温まるものがよいと思って」
「よく、聞いている」
「はい。わたしは殿の側ですから」
すくって口に運ぶ。塩気がほどよく、喉が目を覚ます。愛姫は俺の袖の端を自然に整え、ゆっくり言う。
「兵糧は、戦と同じくらい“誠”です。殿が今日守ったのは、盟の約束だけではなく、城の台所でもあります」
「……そうだな」
視線が机の端の木札に落ちるのを、彼女は見ていないふうで見ている。気付かぬふりをして、さりげなく話題を前へ押すのがうまい。
「小田原からの便は、明日も出ます。塩の樽、いくつか増やせますね」
「増やせ。帰りの船は布を積め。峠に布は効く」
愛姫は「承知」と笑い、立ち上がった。笑顔は長くない。けれど、その短さが救いになる。
午後、荷駄の準備が本丸下に広がった。俵、樽、木箱、縄。若い兵が俵を抱え、「この米、重さは殿の悩みの半分くらいですね」と言って喜多に叱られる。伊佐がすっと現れて、縄の結びを直した。声を立てず、指先だけで三手を教える。
「結び目は小さく、目立たず、ほどけないように」
「はい!」
返事が揃う。伊佐は俺に目を向けると、右肩の高さで指を三度折った。三箇所――峠の見張り場に目を置いたのだろう。小夜の影を継ぐように、伊佐は“空き”を見つけて埋め続けている。俺は目で礼を返した。
夕刻、実元から返書。筆は相変わらず走る。
――白河にて荷を改め、峠筋は村役の手を借りる。栃尾へは一息で届かず。受けの蔵まで出てもらう段取り可。兵は軽装、槍と弓のみにて。病の者が出ても回せるよう、小隊ごとに荷を分ける。実元
よし。俺は短く「任す」と書いて返す。続けて相州へも一通――『盟違えず。兵は出せずとも、米と塩と鉛は出す。景虎殿の手足が冷えぬように』。言葉は短く、誤解の余地がないように。
夜、父上からも文が届いた。置賜は変わらず堅い、と。上杉の空は荒れているが、雪はまだ降らぬ、と。短い文なのに、背骨が伸びる。俺の返しも短くなる。――『南は粥を、北は柵を。欲を抑え、道を太く』。
松明の火が小さくなり、城が静まる。机の端の木札に指を置いた。小夜がいたなら、今ごろは荷駄の結びを全部素手で確かめ、伊佐にだけ小さく文句を言い、最後に俺へ黙ってうなずいたろう。うなずきは、言葉より重い。重いものが減ったぶん、俺は自分のうなずきを濃くするしかない。
翌朝、北条の使者が再び顔を見せた。夜のうちに書状を受け取り、返事を携えてきたらしい。
「氏政公、『よし』とのこと。『伊達、その約、しかと見た』。ただ――」
「ただ?」
「『栃尾の兵糧が届いたのち、状況許せば、兵の顔だけでも見せよ』とも」
顔だけ、か。俺は小さく笑ってうなずいた。
「顔なら見せよう。旗を立て、挨拶をして、雪の前に戻る。顔は、寒さに強い」
使者は安堵した顔で頭を下げた。体裁――それは軽く見えて、国を動かす重りでもある。重さのかけ方を間違えなければ、体裁は味方だ。
使者が去り、俺は広間にひとり残った。畳の目を一本指でなぞり、掌をぐっと握る。動かす兵は最小、護る面は最大。海の便は絶やさず、山の道に目を置く。連弩は城で増やし、火縄は湿らせない。米は“兵”であり、塩は“息”。鉛は“手”。この三つを切らさなければ、冬は越せる。冬を越せば、選べる。
愛姫が昼餉を運んでくる。今日は栗が入っている。匙でひと口すすると、意外と甘い。思わず顔が緩むと、愛姫が得意げに顎を上げた。
「中庭で拾ったんです。子らが『栗は勝ちの味』と言っていました」
「いい名付けだ。勝ち栗、もらった」
「はい。峠にも勝ちが届きますように」
勝ちという字は、米と力にも見える。米を持って、力を節約する。今日の俺たちは、そういう勝ちを積む番だ。
夕方、荷駄が城門を出た。槍は光を抑え、旗は高く、声は短く。見送りの兵が「足を冷やすなよ」と囁く。山の向こうの栃尾で、腹を鳴らしている者がいる。そこへ届く米は、刃と同じくらい重い。いや、いまは刃より重い。
俺は門の内側で、深く頭を下げた。伊達の名で、伊達の体裁で、伊達のやり方で。盟の顔を立て、家の腹を守る。大軍を出せない日は、別の力を出せばいい。人はそれを“気遣い”と言う。戦では、それが“策”になる。国では、それが“誠”になる。
夜になって、机の端の木札に指を置いた。手は少し、震えていた。震えは悪くない。震えがあるうちは、命令が軽くならない。明日もまた、動く。山の荷、海の荷、城の粥。体裁は守るためにある。守り方を間違えなければ、必ず次が開く。俺は灯を細くし、目を閉じた。
――雪の前に、道を太く。盟を薄くせず、家を薄くせず。今日の一手は、そういう一手だ。




