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『小夜、月影のまま』

 須賀川の一件は、噂のほうが早かった。城下の茶屋でも、浜の綱場でも、人は「伊達は迷わない」と囁いた。重く冷たい話だが、国をまとめるには必要な冷たさでもある。だからこそ、この日の登城は穏やかに終えるつもりでいた。二階堂の縁にいた石川昭光、そして白川義親が、起請文を持参して再度の臣従を誓いに来る――そう報せが届いたからだ。


 広間には余計な飾りを出さず、いつも通りの畳と花だけを据えた。俺は上座から半歩降り、二人を迎える。石川は礼式どおりに頭を下げ、きれいな筆で書かれた起請文を差し出す。白川も続き、手を震わせることなく、同じように誓いを読み上げた。穏やかな声だった。読み終えたあと、湯が運ばれ、折敷に菓子が置かれる。場は和やかに見えた。俺は、わずかに肩を緩めたのだと思う。


 その瞬間だった。白川の腰のあたりで、鈍い金具の音がした。目がそちらへ動いた時には、もう彼の手は柄にかかり、鞘が床を滑っていた。刃が光る。近い。俺は立つより先に小夜の影を見た。彼女は俺の前へ飛び込み、白川の腕を払うように身体をぶつけ、そのまま懐に潜った。白川の肩口に小夜の小刀が吸い込まれるのと、白川の刃が小夜の脇腹をかすめるのは、ほとんど同時だった。


 音が遅れて広間に落ちた。片倉が踏み込み、遠藤が白川の腕を捻り上げる。黒脛巾の二人が背後から押さえ、石川は蒼白になって一歩も動けない。俺は小夜の身体を抱きとめ、その場に膝をついた。温かさが腕に広がり、彼女の呼吸が短く細くなる。小夜の頬には、あの四倉でついた薄い傷がある。笑うとき、いつもその傷が先に動いた。


 「殿……」


 小夜が俺を見上げた。驚くほど澄んだ目だった。恐れはどこにもない。彼女は息を整えるように言葉を選び、短く笑った。


 「……また、守れました」


 「喋るな。今、薬を――」


 「いえ。……殿は、まっすぐでいてください。……わたしが、影でいられたのは、そのまっすぐの、後ろに立てたから、です」


 胸の奥が崩れる。何か言わなければと思ったが、喉が動かなかった。彼女はわずかに首を振り、指先で俺の衣の端をつまんだ。指が、こつんと落ちる。小夜は、俺の腕の中で、音を立てずに眠った。どれだけ抱いていたのか覚えていない。伊佐の気配が近づき、そっと小夜の髪を整え、帯を正した。伊佐は一言も言わなかった。俺も言えなかった。


 やがて、片倉の声が遠くから届く。「白川、取り逃しました。肩に深手。従者が抱え、馬で南へ。白河へ向かう様子」――遅れて、怒りが腹の底から立ち上がる。静かな怒りだ。冷えていて、重い。


 俺は顔を上げ、まだ広間に座り込んでいる石川昭光を見た。彼は震える指で起請文を握りしめ、何度も言葉にならない音を漏らしている。俺は立ち上がり、短く言った。


 「石川殿」


 彼ははっと顔を上げ、床に額をこすりつけた。「我ら、知らず……誓って、知らず。白川の狂気、ここで初めて……」


 「ならば証を立てよ。今、この場でだ。――すぐに兵をまとめろ。白河城を攻める。白川義親の一族郎党、根絶やしにせよ。城下の民家へ手を出すな。刃を持つ者、白川の血筋、家臣の中核だけを討て。逃げる道は潰せ」


 石川は震えながらも深く頷いた。目には涙があったが、瞳の真ん中に小さく固い光が宿った。これは命乞いではない。自分の名と家を守るための覚悟の光だ。


 俺は次々に指示を飛ばす。片倉には全体のまとめ、兵站、道と橋の確保。遠藤には東西の口を閉じる部隊の指揮。鬼庭右衛門には磐城から三百を引かせ、南の川筋で袋の口を作らせる。大内定綱には城下に先触れを流させる。「白川の逆心、伊達はこれを討つ。民は屋内に留まれ。手出し無用。従う者は赦す」と。黒脛巾には裏門と抜け道を洗わせ、城の内通者がいれば逆に案内を取らせる。


 「伊佐」


 俺が名を呼ぶと、彼女は静かに一歩出た。目は赤い。だが澄んでいる。


 「小夜を、白水に。師に頼んで、あの堂で……」


 「はい。きれいにして、お送りします」


 「それから、白河へ走れ。白川家の女童はどう扱われている。城の外へ出される者はいるか。……救える者は救え。罪は家の男たちにある」


 「承知」


 彼女の返事は短い。だがその短さが、どれほど強いかを俺は知っている。伊佐は小夜の額に掌を当て、一瞬目を閉じ、それから影のように去った。


 準備は速かった。須賀川の緊張が、城全体の動きを軽くしている。馬が引かれ、槍が束ねられ、火縄が油に包まれる。連弩が十機、箱から出され、弦の具合を最後まで確かめた。小夜のために湯を煮ていた台所では、いまは兵の粥が大鍋で音を立てる。愛姫は涙を見せなかった。女たちに手を動かさせ、湯気の向きを整え、男たちの腹に温かいものを入れた。彼女のその姿が、今の俺には一番の支えだった。


 日が傾き、出陣の刻。石川は先頭に立った。彼の背に、迷いは見えない。迷えば死ぬと分かっている顔だった。俺は城門まで見送り、最後に言葉を投げる。


 「石川殿。証は一つでいい。戻ってきたら、お前の起請文のうえに白川の印形を重ねろ。――血ではなく、行いで、重ねろ」


 「必ず」


 軍勢が走り出す。蹄の音、鉄の擦れる音、短い掛け声。俺はその音を背に、静かな書院に戻った。机の上には、小夜がいつもまとめてくれていた小さな紐束が置いてある。緩んだ帯を留めるための、何の変哲もない紐だ。彼女はいつでも、こういう細い場所を見ていた。俺の背の隙、家の隙、心の隙。そのどれもを、音もなく結んでくれた。


 筆を取る。白河攻めの軍令を短く書いたあと、もう一枚、小さな紙を出す。誰に見せるつもりもない文だ。


 ――小夜。俺はまっすぐでいる。お前が影でいてくれたように。お前がいない分だけ、まっすぐを濃くする。だから、見ていてくれ。


 墨が乾くまで、手が少し震えた。震えは止まらない。止める気もない。震えを忘れた手で出す命令は、軽くなる。軽い命令は、家を傷つける。震えを抱えたまま、俺は次の段取りを重ねた。


 夜半、早馬が一度戻る。白河の外郭、すでに火蓋。石川の槍、よく働く。鬼庭の横槍が効き、南の橋を押さえた――短い報せに、握った拳の力が少しだけ抜けた。遠藤の隊は抜け道を塞ぎ、黒脛巾は裏口に耳を置いた。準備どおりだ。ここからは粘りだ。粘りは勝ちに変わる。


 灯を落とす前、伊佐が戻った。衣の袖は湿っている。顔は静かだ。


 「白川の女童、城外へ追い出される者あり。寺に預けました。……小夜は、師が受けてくださいました」


 「ありがとう」


 言葉がそれ以上続かない。伊佐は俺の隣に膝をつき、短く息を吐いた。二人でしばらく、何も言わずにいた。静けさは重いが、逃げ道ではない。重さをいま抱えなければ、明日の命令は空っぽになる。


 夜が深まる。明日、白河は決着がつく。俺は灯を細くし、最後に一つだけ命じた。


 「……石川が戻ったら、起請文を改めて読み上げさせる。城下の民を呼び、田畑の割付をその場で示せ。『伊達のもとにいれば、理が通る』――それを、今日の血のあとに必ず載せる」


 小夜の紐を掌で包む。小さくて、頼りないはずの紐が、不思議と重い。彼女の重さだ。抱いて眠る。明日の朝、俺はまた、まっすぐ立つ。小夜が影でいてくれたように。今度は俺が、影も光も引き受けて立つ。

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