『問われるよりも先に、心が答えていた』
朝の陽が差し込む書院の間。
障子を透かして入る光が、ふすまの縁を黄金に染めている。
その中に、俺は正座していた。
隣には父上、伊達輝宗公。
その前に控えるのは、黒衣の僧。長身痩躯で、ひと目見ただけで尋常でない空気をまとっていた。
(……あのときの坊主だ)
あの、寺で。不動明王の像の前。
火が灯され、香が漂う本堂で、ひとり読経していたあの坊主。
俺が女子と鼻の下を伸ばしていたのを、ちらと見て笑った――あの坊主が、いま目の前にいる。
「虎哉宗乙、これより梵天丸の師となってもらう」
父上がそう言ったとき、俺はちょっとだけ、背筋が伸びた。
(師……? 俺に?)
虎哉と名乗ったその僧は、俺の顔をまじまじと見て、くく、と喉を鳴らした。
「五歳にして、すでに女子に色目を使うとは。――肝が据わっておる」
ち、ちがう。あれは偶然――
「そのままでよい。恥じることはない。仏もまた、煩悩を経て悟りに至るのだ」
……ちょっと、いや、かなり、話が飛躍している気がする。
「では、さっそく始めよう。お主に問う」
虎哉は、ふところから石を取り出した。
それはただの石。どこにでもあるような、丸みのある、小さな石。
「これを、どう思う?」
どう思う――?
俺は石を受け取り、手の中でころころと転がす。
重くもなく、軽くもなく。温もりも冷たさも、はっきりしない。
でも、なぜだろう。
ふと、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……誰にも、見つけられなかった石だと思う」
「ほう?」
「でも、いま、こうして手に取ってもらえて……ちょっとだけ、うれしい気がしてる」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。
石に気持ちがあるなんて、馬鹿みたいだ。
けれど虎哉は、じっと俺を見て、口元を歪めた。
「お主、仏の声を聞いたことがあるか?」
「……わからない」
「それでよい。それでこそ、答えだ」
なにを言ってるのか、わかるような、わからないような。
でも、虎哉の声は不思議と心に残った。
「では、もう一問。――木は、なぜ立つ?」
庭に見える松の木を指して、虎哉は言った。
俺は少しだけ目を細めた。
風に揺れる枝、根を張る幹。折れそうで折れない姿。
「……倒れたくないから」
「なぜ倒れたくない?」
「……見てくれてると思ってるから」
そのときの虎哉の目。
ほんの一瞬だけ、心の奥に火が灯ったように見えた。
「問わずして、答えに至るとは」
虎哉は言った。
「禅とは、言葉にあらず。心が問えば、己が答えるもの。……お主、その道に足を踏み入れておるな」
俺は、こくりと頷いた。
だけど、まだわかっていない。
“学ぶ”って、なんだ。
“生きる”って、どういうことだ。
「もう一つ、問う」
虎哉の声が、また少し低くなる。
「人は、なぜ争うと思う?」
……争い。
戦。
血が流れる。人が死ぬ。
それは、父上が、何度も経験してきたもの。
そして、俺がいずれ、避けて通れぬもの。
「……“わかってほしい”って、思いが強すぎるから」
「ふむ」
「誰かに、自分の気持ちを伝えたくて。でも、言葉じゃ届かないときに……力に頼ってしまう」
虎哉は沈黙した。
そのあと、低く、重たく、呟いた。
「……五歳とは思えぬ言葉だ」
やばい。ちょっと言いすぎたか。
でも、もう遅い。
虎哉は、俺の前に膝をついた。
「梵天丸殿。拙僧、そなたを師と仰ぎたい心地だ」
「え、いや、それはちょっと……!」
「いや、冗談である。――されど、拙僧の知をもって、そなたの心に挑む。これは、いずれ天下を握る者に与えられる“修羅の問い”である」
俺は、背筋を伸ばした。
虎哉の目を、まっすぐ見返した。
「……俺、強くなりたい。心も、言葉も。戦も、やさしさも、ぜんぶ」
「よい覚悟だ」
その日、はじめて俺は――
“言葉の戦”に、足を踏み入れた気がした。
(つづく)